ある日の夕方、母と私たちを乗せた父の車は、母の実家の玄関の前に到着しました。久しぶりに親せきが集うことになっていたのです。
車を降りたとたん、裏玄関に回る母の背中に向かって、駄目と言われるのを覚悟で、仏壇に手を合わせる前に、駅前に行ってきても良いか訊いてみました。私の声がとどかなかったのか、母は返事をしませんでした。いつになく足早に歩いていた母が、台所脇の沓脱の板戸の外で急いで靴を脱いでいる背中に向かって、また、あいさつする前に駅に行ってきても良いか訊くと、母はようやく振り返って、行っておいで、と言ってくれました。
玄関の前の道を渡り、通りを隔てた草地と小店の間の、きれいに雑草が刈り取られた小道の斜面を下りると、駅前の広場に出ました。
だだっ広い広場の隅には、あの日と同じように、枕木が重ねて積んでありました。薄緑色の雑草に覆われた濃い茶色の枕木の数は減り、私の背高よりも、ずっと低くなっているように見えました。
新しい家に引っ越す前に、脇の空き地でお友達と缶けりの約束をしていたすぐ上の姉について行って、細道の斜面をおりようとした時、前を歩いていた姉に言われて、茫々と脇に生えていた雑草につかまりながら用心深く歩いていたのに、ズックが脱げて、乾いた土の上で滑ってしりもちをついたことがありました。
転んだ私にすぐに気が付くと、姉は、軽やかに体を左右に揺らせながら走り寄ってきて、素早くしゃがんでズックを履かせてくれました。
姉に手を引かれて、細道をおりてようやく平地に下りた私が顔を上げると、急に視界が広がり、目の前に、姉の背丈よりもはるかに高く積まれた巨大な材木が積み重なる広場が現れました。
材木の前に立つと姉は、私に向かって、うん、とうなずき、目の前をすたすたと歩いて行って反対側に回り、いとも簡単に、積まれた材木によじ登って、てっぺんまで上がって見せました。
家から保育園に歩く道のり、途中にある姉の友達の家の前辺りにあった塀の上に立っている姉は、一度だけ見かけことがありましたが、目の前で高い所に立つ姉を見るのは初めてでした。
太陽を背に、背筋をすっと伸ばして両足を開いてバランスを取ってそこに立つ姉の髪は、肩の辺りで心地よさそうに風に揺れていました。
私が呆然として見上げている間に、姉は、「いち、にの、さーん。」と大声をあげながら、急にそこから飛び降りてみせました。そして、着地に成功すると、素早く立ち上がり、しゃがんだ時についた両手の土をパンパンと払いながら、再び材木の上によじ登っていきました。
姉が「いっち、にーの。」で、両腕を開く度に私は息を呑み、肩の高さまで両腕を上げ「さーん。」で、勢いよく枕木を蹴って空に向かって飛び上がり、うまい具合に着地に成功する姿を見ると、心からほっとしました。
炬燵の上から飛び降りるのがやっとだった私には、塀の上からでも飛び下りられる小学生の姉が英雄に見えたのです。
姉は、積んである枕木の端のくぼみにズックの先を巧みにひっかけながら、よじ登っては飛び、またよじ登って行っては、私の前で高く飛んで見せました。
姉の手の平やズボンの膝は、日が暮れる頃には、真っ黒になってしまっていました。
低い枕木の上に立って、駅の前をぐるりと見渡すと、右手に、近所のみんなが「ちゃやっこ」と呼んでいる小店が見えました。
中に入ってお店の中をゆっくりとひとまわりし、壁際の台の上に無雑作に置かれていた駄菓子をひとつ手に取って、高い所に座っていたお店の女の人に「こんにちはー。」とあいさつすると、おばさんに100円玉を渡しました。引っ越し前は、姉と一緒にお店の中に入るや否や大声で話しかけてくれる人だったのに、その女の人は、私には目もくれずおつりを数えながら、他人行儀に「はい、どうもね。」と言っただけでした。
小店のドアを出ると、私が数年前に、泣きながら保育園のお友達を見送ったホームがある駅が見えました。ふと、自分がいなくなった時、泣いたお友達はいたのかな、それとも、みんなママのように笑ってお別れができたのかな、と思いました。
駅前の広場には、たまに一台か二台の車が停まるだけで、心なしか、以前より人通りが少なくなっているように見えました。
それでも、母が生まれ育った家の前の駅舎と、駅舎の屋根の向こう側にそびえる祖父と登った山の緑だけは、以前と変わらず、静かにそこにたたずんでいるのでした。
祖父母の家の裏口に戻ってみると、開けっぱなしの板戸の向こうから、にぎやかな話し声が聞こえてきました。
誰が来ているかな、と思いながら、戸口の外の庭にまではみ出した、軽く二十足はある履物をつま先で踏んづけながら廊下に上がり、振り返って沓脱を見てみると、色とりどりの履物が脱ぎ捨てられていました。いつものように、大きいつっかけも、小さいズックも、きれいなサンダルも、踵がつぶれたのも、破けているのもありました。
でも、私は、いつの間にか、沓脱の脇に設えられた流し台のすぐ横にきちんと揃えて並べてある祖父母の履物以外、どれが誰のなのかを言い当てることができなくなってしまっていました。
<次回に続きます。>
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