君は、美しい日本語を話しなさい。

 外国暮らしをしていると、どんなに帰国したくてもやむを得ない事情で日本への帰国がままならない場合があります。私も、お世話になった大切な方々や身内の冠婚葬祭時にさえ帰郷できないことがよくあります。長年アメリカに暮らしている友人が、ご主人の母親の介護をしていたので8年間帰国していないという話を聞いて驚いたことがありました。それでも、彼女は毎日を、明るく前向きに生きているのでした。
 
 今すぐに飛んで帰りたいけれど、それが出来ないからこそ、帰国した際には、日本の家族や親せきや昔馴染みの友人・知人との大切な時間を、思う存分楽しみたいものですね。

 下記にご紹介するのは、2009年1月のブログ記事(そのブログはなくなってしまったのですが、ハードドライブの中にブログ記事が少し残っていました。)です。どうぞご一読ください。

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 先月末、日本に住む私の姪が、5歳の誕生日を迎えました。大勢のおともだちを招いてイチゴのケーキを囲んで盛大にパーティをした時の様子を撮影した写真を、義弟がEメールに添付して送ってくれました。

 姪Nちゃんに最後に会ったのは、2007年の11月です。
 当時、彼女は4歳の誕生日を翌月に控えており、いそがしく保育園へ通ったりスイミング教室へ通ったりしていました。
 私がアメリカへ帰ってきた後、ピアノも習い始めたようで、3歳児にしては過密なスケジュールをこなす様子に、遠くにいる伯母はただただ感心するばかり。その姪っ子が、もう5歳になったなんて、なんて感慨深いのでしょうか。
 
 日本で、私立高校の教師をしている義弟はアメリカ生まれ。
 義弟のおとうさまは、アメリカの方で、おかあさまが日本の方です。
 そのため、Nちゃんと彼女のパパは、バイリンガル同士、英語で会話をします。公立高校の英語の教師である私の妹も、子どもたちには、英語を混ぜながら日本語で話しかけています。
 
 私は、義弟が送ってくれた何百枚もの写真を眺めながら、ある出来事を思い出していました。
 それは、姪っ子が、まだ2歳になる半年前、2005年の夏のことでした。

 その年の6月、私は、数年ぶりに子どもたちと一緒に日本に帰国していました。
 将来は、努力次第では、両国の言語をそつなく操るようになるのでしょうが、この姪っ子には、幼いうちからきちんとした日本語を学んでほしいとの老婆心から、私はあることを思いつきました。Nちゃんは「ばーたん」「じ-たん」などの呼び方はできていましたが、彼女の語彙を増やすためにも、ひと夏かけて、一緒に簡単な日本語の単語の学習をすることにしたのです。
 
 Nちゃんと私は、いつも一緒にお気に入りの絵本を読みながら、本の中の単語を暗記しては、私の両親が散歩から帰ってくるたびに「今日習得した言葉」を披露していました。
 上手に何かが言えたとき「てんさい!」「てんさい!」と言ってふざけながら、1歳半のNちゃんは、帰宅したマミーやダディーにも、張り切って言って見せていました。 時には、その日開いたばかりの絵本の単語が全て言えることもありました。

 「いぬ」「ねこ」「りんご」「みかん」などはもとより、「きかんしゃ」「さんりんしゃ」「きのぼり」など、絵本を見ながら健気に何度も復唱する一歳半の姪っ子の集中力と暗記力にすっかり感嘆してしまった私は、欲を出して、もう少しレベルの高い単語にも挑戦させてみることにしたのです。
 「おかあさん」「おとうさん」「おばあちゃん」「おじいちゃん」のほかに「ごきげんよう」「ありがとう」「けっこうです」などです。
 きちんとした言葉は、幼いうちから日常的に教えておいて、習慣として定着させておくに限ります。
 わが子の日本語教育に成功したとはいえない私が、まだ2歳にも満たない姪の日本語教育にかける意気込みはかなりのものでした。

  1才半の子には無理かな、と懸念しながら、それでも言わせてみると、Nちゃんには、私の言ってみせる言葉の大半が正確に発音できます。

  素晴らしい。
  本当に天才かも。

 「おかあさん」「おとうさん」「おばあちゃん」「おじいちゃん」「ごきげんよう」「ありがとう」「けっこうです」
 これらを何度も繰り返した後、自分のことはなんて呼ばせようかと迷った挙句「おばさま」と呼ばせることにしました。
ところが、「おかあさん」「おとうさん」「おばあちゃん」「おじいちゃん」「Kおばあちゃん(私の祖母)」までは、発声に少しのにごりがあるにしろ、かなり正確に繰り返すのに、姪は「おばさま」の番がくると、とたんに発音できなくなってしまうのです。

 一体どうしてしまったというのでしょうか。

 私は、何度かゆっくりと「お・ば・さ・ま」「お・ば・さ・ま」と繰り返した後、「はい、Nちゃん、いってごらん。リピート・アフター・ミー。」と優しく促しました。
 すると、どうでしょう。
 何をどう聞き間違えたのか、姪はいきなり大きな声で、「ば・ば・あ」と言いました。
「おばあちゃん」「Kおばあちゃん」と、一気に「ば」のつく言葉を詰め込み過ぎたせいで、彼女は混乱してしまったのかもしれません。

 でも、例えそれが半分事実だとしても、そして、一歳児にはその言い方が最もしっくりくるとしても、可愛い姪にだけは「ばばあ」なんて呼ばれたくありません。
「ばばあァ?Nちゃん、それは良くない言葉なの!」
思わず、語気が荒くなってしまいます。危うく幼児を相手に啖呵を切りそうになりました。
「Nちゃん、お口のうごきを、よくみてごらん、ほら。お・ば・さ・ま!はいっ。」
すると、Nちゃんが、今度は、なんと「ば・さ・ま」と言うではありませんか。
しかも、上手に言えたことを褒めてもらいたそうに、満面の笑顔です。

 確かに「声にした音は75%合っている」つまり、かなり正解には近いけれど、「ばさま」と呼ばれるのは、ちょっと。。。呼び方としては、駄目、駄目!絶対に駄目です。
 これで、来月アメリカに帰ってしまったら、教育に熱心な人々で構成される実家の近辺で「日本語を忘れたアメリカ帰りのメギーが、可愛いNにとんでもない俗語を教えて、国へ帰った。」との黒い噂が立ってしまうかもしれません。
 夜、帰宅して玄関のドアを開けた妹が「ただいま~。Nちゃ~ん、今日は、何をおべんきょうしたの~?」と、おっとりとした声音で彼女の娘に話しかける姿が目に浮かびました。

「そうじゃなくて。。。ほら、お口、よく見てごらん。“お”・ば・さ・ま!」と私の口の開け方を見せながら、「お」を強調して発声してみせました。ところが、Nちゃんは最初の「お」を落として、「ばさま」「ばさま」と繰り返します。
 
  私は、別の言い方を教えてみることにしました。
「じゃあ、おばちゃまって言ってごらん。“お”・ば・ちゃ・ま。“お”・ば・ちゃ・ま」
 つぶらな瞳をぱっちりと見開いたNちゃんは、私の目を真っ直ぐに見つめながら、今度は「ちゃ・ま・ま!」と言うではありませんか。
「ちゃまま」「ちゃまま」

  私は、「ばばあ」と「ばさま」と「ちゃまま」のはざまで、すっかり途方にくれてしまいました。

  しばらく呆然としてしまいましたが、一歳半にしては利発な姪の表情を見ているうちに、ついに頬が緩んでしまいました。
 吹き出してしまった伯母に、ようやく褒められたと思ったのか、姪っ子は、すっかりこの呼び方が気に入ってしまい、面白そうに「ちゃまま」「ちゃまま」と繰り返しています。

 一方、1歳半の「幼児」を相手に憤慨することもできずに、両親の家の茶の間の障子の向こうに見える、きちんと剪定された美しい日本庭園の池に飛び込む蛙を、力なく眺めやりながら、こんなことなら、最初は「おばちゃん」から教えるべきだったと反省した伯母は、かくして、2005年の夏、1ヶ月以上の長きにわたり、Nちゃんに「ちゃまま」「ちゃまま」と呼ばれ続けたのでした。

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アバンギャルドな妻と呼ばないで

 末息子の誕生日が近づいた5月末のある日の午後、息子が愛用していた走行距離214000マイルの日本車M社のSUVをパワーウォッシュで洗浄していたときのことでした。
 私は、毎年一家で過ごしたオーシャン・シティ(東海岸デラウェア州にある海岸)の海辺でのサマー・バケーションの風景を懐かしく思い出しながら、今では遠くの町で暮らす次男のお気に入りだった赤と白の縦縞のシャツを彼のクローゼットから取り出してきて、去年バーゲンで買ったばかりのG社のキッズ用の、紫色を基調とした原色だけの大胆な草花のデザインをあしらったサマードレスの上にあわせて、水圧をあげてSUVのルーフトップを洗っていました。
 
 洗車を始めてしばらく経つと、私から15メートルほど先のガレージの入り口のところに、夫が静かに立っているのに気がつきました。もしかすると彼も遠くに行ってしまった子どもたちのことを案じて寂しがっているのだろうか、と思った私は、目深に被った麦わら帽子で隠れていた顔をあげると元気よく日本語で「どうしたの~っ、Pく~んっ(夫の愛称)?!」と、SUVのルーフよりさらに高いところから、彼に呼びかけました。すると、夫は笑顔を見せて「かわいいヨ、Mちゃん。」と、日本語で答えました。
 
 こんなことが口をついて出るなんて、やはり夫は、次男の愛車を見ながら悲嘆にくれているに違いありません。私は脚立代わりに使っていたバー・スツールから、よいしょと降りてパワーウォッシュを一旦止めると、帽子を脱ぎながら夫の方へ近づいていきました。
 夫は、右手に持っていた携帯電話のカメラの画面に目を落としたまま私に向けて「ほらア、かわいいヨ。」と、もう一度言いました。どうやら彼はしばらくそこに立ったまま、目深に被った帽子の向こうの景色が見えない私が時間をかけて息子の愛車を洗っている様子をカメラに収めていたようなのでした。
 
 子どもたちがそれぞれに独立していなくなってしまった今、ついに夫とふたりだけになってしまい、写真を撮る時も撮られる時も一人ずつ、そうでなければ、庭の草木や小さな動物達や周りの自然の風景だけになってしまったのだ、これからはここでふたりきりの余生を歩んでいくのだと思うと、一抹の不安と虚無感が混ざり合った複雑な感情が一気に込み上げてきて、思わず涙がこぼれそうになりました。それでも、買い換えたばかりの携帯電話のカメラの性能が思いのほかよかったことを思い出しながら、ぐっと涙をこらえて着ていた息子のシャツで両手を拭うと、どれどれ、と言って、カメラの画面をのぞき込みました。
 ところが、彼の撮った写真を全て見終わらないうちに、私は「一体何これ?」と問いただしてしまったのです。
 
 高品質のはずの画面には、5年以上前のビーチ旅行のために次男に買ってあげたゴム草履をはき、オーシャン・シティのプロのサーファーも顔負けするほどの水しぶきをあげながら、脚立代わりに使っていた古いバー・スツールの上で前のめりになってシルバーのポンコツSUVを洗車している私の姿が写し出されているではありませんか。
 笑顔の夫は「ね、かわいいでしょう。」を繰り返します。
 私は思わず、「かわいいって・・・一体何これ?これじゃあ、ミート・ザ・ペアレンツ2に出てきたバーニーじゃない。」と言い返してしまいました。
 写真に写っている、紫や赤や緑といった原色使いの大柄な葉っぱのデザインのワンピースの上に、ブカブカの次男のシャツを法被のように羽織り、ゆうに頭のサイズの2倍はある麦わら帽子を乗っけて、すぐにでも粗大ごみとして処分したほうがよさそうなバー・スツールの上に立つ自分の姿がどう見ても、なぜか映画の中で  ― はたして、あの映画の中にそんな場面が出てきたかは疑問ですが ― 家中のどこに座っていても摩訶不思議なお香の匂いが今にも漂ってきそうなエキセントリックな雰囲気が漂う居住空間の中で、ヒッピー風の突飛な装いでコミカルに演技を繰り広げる日焼けしたダスティン・ホフマン扮する父親バーニーの姿に重なってしまったのです。
 
 先刻は、子どもを案じ涙ながらに彼の愛車を洗車していたのに、これではどう見ても、かつて横浜のランドマークタワーで週末の度に見かけた大道芸人か「息子がついに出て行ってくれたの~、ばんざーい。」と諸手をあげて喜んでいる浮かれた母親にしか見えません。
 夫の美意識を疑いながら、「Pくん、日本語ではね、こういうの、『かわいい』っていわないで、『ちぐはぐ』というの。『チンドン屋みたい』とかね。大体洋服の柄がシャツとドレスじゃ全然マッチしていないし、よれよれでちっとも綺麗じゃないじゃない?しかもゴム草履でこんなガタピシ来ているスツールの上に立っているところじゃなくて。。。普段の、わたしがもっとふつうのときの写真、撮ってくれない?」と言うと、夫は入れ替えたメモリーカードに入っていた他の画像も見せてくれました。
 アルバムの中の自分は、ある時は塀の上によじ登ってアメリカン・ロビンの巣があるトランペット・バインの上から蔓の中の巣を覗きこもうとして顎にぴたりとカメラをくっつけて構えていたり、またある時は、枯れ果てたトウモロコシ畑で黒子さながら頭のてっぺんからつま先まで真っ黒な装束に身を包みしゃがんだ姿勢で枯れた葉っぱに向かって話しかけていたり、どれもこれもちょっと異様なのです。私は自分の目を疑いました。
 
 これが自分の実像だったとは ― 。

 アルバムを見終って落胆する妻を励ますため、夫は一言「要するに、君はとてもアバンギャルドな奥さんだってわけなんだよ。」と言うと、小柄な私の肩をポンポンポンと軽く叩いて、再び洗車のためにバースツールに戻る妻の労を、心からねぎらうのでした。
 
 
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おだてに乗る気立ての良い夫のお話

 毎年夏の終わりになると、次男が薪割りをしてくれたものですが、彼が遠くの町へ越していってしまった今、今年はいったいどうしよう。。。物思いにふけりながら、かつて子どもたちが遊んだツリーハウスの周りを散策してみます。
 2001年に1エーカーのこの土地を購入した時、あたりは一面雑木林だったので、家を建てるためには、林の樹木を伐採して着工を始めなければなりませんでした。伐採したカシの大木は数本をのぞいて業者に引き取ってもらい、冬場はセントラルヒーターをなるべく使わず、残った木で薪を割っては暖炉にくべて暖をとっていました。
 数年前に裏庭にプールを作った時に再び数本伐採してもらい、何等分かに切リ分けられたばかりの重たい幹を、夫と息子たちが二日がかりで片付けて、ここが次男の薪割りの作業場になったのです。薪割りをしては積み上げて、冬場になると少しずつ手押し一輪車に乗せて移動しガレージ前に重ねていきます。
 
 思えば、夫が、我が家の完成を待たずに倒産し夜逃げ同然に姿を見せなくなってしまった施工会社に見切りをつけて、自分でキッチンの床タイルを張ったりガレージの上に床材を敷いてくれたりしてから、早10年が経ちました。
 「わあ、歪んでいるけどいい味が出てる。」とか「こういう色合い、T市(母の実家のある場所)のグランマの家の床の色みたいでなんだかふるさとを思い出す。」などと言っているうちに、夫は、少しミスをしても「わびさ~び(『さ』にアクセントを置きます)」と気を取り直し、わざわざフィラデルフィア郊外まで出かけて錬鉄のドアノブを購入し、古き佳き入植時代のアメリカを彷彿させるコロニアル風のドアまで完成させてくれました。
 ある日は、「ドアも作れるんだから、あなた、もしかすると家具も作れるんじゃない?」と言って出かけ、夕方出先から戻ってみると、リビングルームの中央には、まあなんとお茶目な切り株作りのテーブルが鎮座しているではありませんか。
 「テーブルの表面のやすりのかけ方が十分じゃない、デコボコしている。」などと言って首を傾げては、夫は満足がいかない様子でしたが、普段はヤードセールの5ドルないし10ドル程度の家財道具で済ませている貧乏性の妻にとっては、とても大切な宝物となりました。
このテーブルを、わたしは「エレファント・レッグ(ゾウさんの足)」と呼んで日々愛用しています。
 
 
 
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裏庭から次男の薪割り場を眺めます。

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リビングルームの「ゾウの足」
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脚は3本ですが、見るたびにぞうさんの足を思い出すのです。