忘れられない人々 13.一粒のお米

 ようやく新しい小学校に慣れてきて、集団登校もしなくなると、私は、もうひとりのお友達の畳屋のKちゃんといっしょに、祖母のお店から小学校へ続く一本道を歩いて通学するようになりました。
 学校帰り、ガソリンスタンドのT字路でKちゃんと別れる頃には、温泉街の入り口の角に建つ祖母の米穀店の看板が見えてきました。
 
 いつものように、Kちゃんは、ガソリンスタンド脇の急こう配を下って自分の家に向かいました。Kちゃんは足取り軽くその小路を駆け下りていくのですが、私がKちゃんの家へ行くときは、少し先の家の前の杉並木に沿った平坦な小径を通るのが好きでした。
 畑を通り過ぎて、商店街のお菓子屋を営んでいるおじさんの家の青いトタン屋根や、理容店の有平棒がグルグル回っているのを見ながら八百屋の前にたどり着くころには、とたんに足の疲れがなくなり、ふたをし忘れたランドセルがパカパカ鳴って中から教科書や筆箱が飛び出すほどの勢いで、祖母のお店の手前のT字路まで全速力で走り切ることができました。
 
 エンジンをふかしたまま店の前に横づけしたトラックの荷台には、その日も、ランニングシャツを着たおじさんが2人立って、腰のあたりまでベルトがずれ落ちた薄茶色のズボン姿の黒縁眼鏡のおじさんに掛け声をかけながら、半俵の米袋を渡しているのが見えました。
 通りの向こうから、黒縁眼鏡のおじさんに「M、車来るぞー、気を付けろー。まだ渡るなよー。」としゃがれ声で怒鳴られる前に、いったん止まって右手のゆるやかな坂道を車がおりてきていないことを確認すると、急いで通りを渡ってお店の中に駆け込みました。
 それから、ズックを脱ぎ捨ててレジの奥の畳の部屋の祖母の座布団の脇にランドセルを下すと、飴色の陳列棚の中のお菓子をひとつもらって階段のほうからぐるっと一周して、旅館に配達するために積んである袋のてっぺんに腰をおろしました。そして、邪魔にならないように、3人が威勢よく作業に励む姿を眺め始めました。
 
 荷台の前の方に立ったおじさんが、よいしょと重たい袋を持ちあげると、後ろのおじさんに渡し、そのおじさんがトラックの下でお店の中に運ぶおじさんに渡すのです。日焼けした眼鏡のおじさんは、半俵の袋でも軽々と受け取ってはひょいっと肩にのせて、大股でお店の中に入ってきます。おじさんは、15キロのは2たい重ねて一気に担ぐことができました。10キロのは3袋重ねて運びます。額に手ぬぐいを巻いていても、おじさんたちの顔にはうっすらと汗がにじんでいました。
 
 ようやく作業を終えると、黒縁眼鏡のおじさんは、一息入れるために表に置いてあった丸い木製の腰かけに座ってタバコをふかし始めました。
 ひっきりなしに入れ替わるお客さんと畳の部屋にある電話の応対と、奥の壁面いっぱいのガラスの引き戸の前での売り上げの記帳とをひとりで切り盛りしながら、入り口で一服している米協のおじさんたちと大声で会話を続けている祖母に一声かけて、私は少し離れたところに建つ自分の家へ帰りました。
 
 食事の時間が終わろうとしていた頃でした。
 姉たちが「ごちそうさまでした。」をして手を合わせた後も、いつものようになかなかご飯を食べ終えることができなかった私は、食器洗いをし始めた母が背中を向けている隙に、中に半分は残っていたご飯茶碗のご飯を床に落として、「ご飯が床に落ちたから食べられなくなった。」と言ってしまったのです。
 
 母は、ぬれていた両手をエプロンの裾でぬぐいながら振り返ると、自分の手で、私がわざと床に落としたご飯粒を全て拾って私のご飯茶碗に戻して、一粒のお米を作るには農家の人々が朝から晩まで働いても一年かかることや、世の中にはご飯も食べられない人がたくさんいることを話し始めました。
 嘘をついた私のことを咎めずに「落ちたご飯は食べなくて良い。」と言って母が台所を出て行ってしまった後、ご飯茶碗を覗いてみると、せっかく母が焚いてくれたご飯が、すっかり冷えきって少し汚れてしまっていました。
 茶碗に顔を近づけて、「1、2、3、4、、、、」と数えているうちに、お米の粒の輪郭がゆがみ始め、私の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ出しました。
 箸で一口、冷え切ったご飯を口の中に押し込むと、私は、誰もいなくなってしまった台所の中で一人、泣きながらご飯を食べ続けました。
 
 
<次回に続きます。>

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忘れられない人々 12.ロシアからの贈り物

 駅前の母の実家の茶の間の茶箪笥の一番右端には、東京のデパートの食堂で見た外国製の「こけし」が飾ってありました。
 茶箪笥の横の座卓に座っていた叔父に、誰のお土産なのかを聞くと、叔父は、その時帰郷していた東京の叔母の名前を言いました。
 東京のデパートの食堂では、叔母はその「こけし」が来た国へ行ったことがあるなんて言わなかったような気がするのですが、叔父は自慢げに、卓上にお茶を並べてから空のお盆を持って立ち上がりかけた義叔母さんに、その「こけし」の前に立てかけてあった葉書を中から出して私に見せるように、と話しかけました。
 茶箪笥の中の外国製の「こけし」の横には日本のこけし人形が置いてあり、そこにはほかにも様々なお土産が飾られていました。

 義叔母さんが私の目の前に差し出した葉書を見ると、細かい字で手紙がしたためられてありました。
 よく見ると、葉書の真ん中には縦線が入ってふたつに分かれていて、右側には住所を、左側には手紙が書けるようになっていました。デパートの食堂で叔母が説明していた通りでした。
 ひっくり返してみると、裏には風景写真が載っていました。縁がくたくたになって表がちょっと汚れていたその葉書を、叔父は何度棚の中からとり出して読み返したのかな、と思いました。

 二階の広い三間続きの座敷の畳の上を隅から隅まで走り回っては、廊下に出て3ヶ所に設えられた階段に分かれてどすどすと駆け下りたり駆け上がったりする子どもたちの足音に交じり、仏壇が置いてある六畳間の隣のピアノの部屋からは、従姉が奏でる「エリーゼのために」の旋律が聞こえてきました。
 台所の方からは、伯母たちが、割烹着姿でガスコンロに向かって料理する祖母のそばで、茶碗を洗ったり、カチャカチャと小さな音を立てながら、食器棚の中から和食器を取り出して手際よくテーブルに並べている様子が伝わってきました。

 東京から叔母が送ってくれた小包の中に入れてあった私への贈り物の肌着には、ひらがなで2文字しか私の名前は刺繍されていなかったし、肌着といっしょに入っていた私宛の小さな便せんには、「お元気ですか。」とか「さようなら」とかでなく、丸みのある大きな文字で、縦二行に分けて右から「かんせいって、やっぱりみがけばひかるみたい」とだけしか書いていなかったので、叔母がその葉書の送り主だということを知って驚きました。
 父に説明してもらわなければ、叔母の書いた二行の意味さえやっとだった私は、細かい字で埋められた大人に宛てたこの葉書には、一体何が書いてあるのだろうと思いました。

 じっとその葉書を見ていると、障子の向こうの台所脇の沓脱のほうから、台所に向かって挨拶している男の人たちの声が聞こえてきました。
 顔を上げると、従兄のSくんが「おうっ。どうも、どうも。」と言いながら、お辞儀もせずに入ってきました。Sくんのパパの顔も見えました。
 お酒の配達を終えて店が一段落してから義伯父といっしょに遅れて入ってきた群青色の運動着を着た従兄は、野球帽を脱ぎながら、あたかも昨日も私に会ったかのような口ぶりで「学校どうだ。」と、私に話しかけてきました。

 茶箪笥に葉書を戻しながら、日本のこけしの横に並べてあった外国製の「こけし」を見ていると、叔父が中から出して見て良いぞ、と言いました。
 東京のデパートの食堂でケースのガラスの向こう側に飾られていた「こけし」を、初めて自分の手に取って触ってみると、日本のこけしとは違って、軽くて光沢がありました。
 その人形のお腹のあたりをひねって、そっと開けてみると、中から同じ形の小さいのが出てきました。そして、もっと小さいのも、最後には真ん中が開けられないほど小さいのも出てきました。叔母が言っていた通りでした。

 母のお腹の中にも、こんな風に私たちが入っていたのかな、とか、ちっちゃいほうの模様は大きいのよりも少ないな、などと思いながら、しばらく遊んだ後、座卓の向こうの叔父にその名前を知っているか聞いてみると、叔父は一瞬間を置いてから、入って来たばかりの従兄に向かって、「S、教えてやれ。」と言いました。
 Sくんは、「ありゃ、昨日教えたばかりだぞ。もう忘れてしまったのか?」とでも言いたげな顔つきで私を見ると、「お前は俺が抱っこして大事に育てたから、俺とおんなじ左利きになった。」という話を始めました。それだけは耳にたこができるほど聞いたのに、肝心の答えは教えてくれず、百人一首で一首のかるたも取れなくて「ビールの配達がある。」と言ってそそくさと席を立つくせに、行ったこともない国の「こけし」の名前だけは従兄も知っていたことがわかると、急に悔しくなって、私の目から涙があふれそうになりました。

 ピアノの旋律が止んで、弾いていた従姉や私の姉の笑い声が近づき、みんなが茶の間の座卓を囲み始めると、後から入って来た叔母が、座卓の上の「こけし」をみとめると、「あらっ、マトリョ―シカ。」と小さくつぶやきました。
 叔母と同じように軽い調子でつぶやいてみると、うまく言うことができました。デパートでの叔母との会話を思い出して、どうしてあの時おぼえられなかったのかな、と不思議に思いました。
 
 姉妹や従姉妹や叔母たちが、次々と茶の間の中に集まって全員が座卓を囲んで正座し終えると、障子の外に立っていた従姉のHちゃんが、大きな声で質問をし始めました。
 「はーい、この部屋に大人何人いるー?」
 「子ども何人いるー?」  
 次に、「女何人いるー?」の番がくると、私は誰よりも早く手をあげることができました。
 私には、Hちゃんの口からこの次に「この人形の名前、何ていうー?」という質問が出たら、絶対に間違わずに、そらで「マトリョ―シカ。」と言える自信がありました。

<次回に続きます。>

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忘れられない人々 11.校門の宣教師

 その日の昼休み、私は、下級生用の昇降口のそばにある校庭の遊び場で、うんていの順番を待っていました。
 ぶら下がったうんていの鉄の横棒を片手でしっかり握ったまま、じゃんけんをしながら勝ち進んだ上級生が、ようやく敵の陣地を取った後、横棒の上を歩いていた男の子が、職員室の窓から顔を出した黒縁の眼鏡をかけた男の先生に、「下に下りて下級生にも順番を回せー。」と怒鳴られてから、ようやく私たちの番が回って来た時のことです。
 一段とばしや二段とばしをしながら勢いよく前に進んでいく同級生を眺めながら、私も列の後ろのほうに並んでいました。
 
 ふと左手に目をやると、ゆるやかな傾斜の上に立つ校門のところに、見知らぬ大人が二人立っているのが見えました。男の人と女の人でした。
 校庭の中に入ってこない2人を物珍しそうに眺めていた上級生のうちの何人かが、小走りに校門に近づくと、何分も経たないうちに男の人にもらった紙切れを手にして戻ってきました。
 上級生に、自分がもらった紙がほしいなら取りに行ってもらって来いといわれ、一体それに何が書いてあるのかを知りたい下級生たちは、恐る恐るその二人に近づいて行って、それぞれが紙切れを手にして戻ってきました。
 
 横入りをされてまだうんていの後列のほうに立っていた私の横で、ビラを持って戻ってきた子どもたちのうちのひとりが、話が通じたと言いました。 カーディガンなのか妙に不恰好な前合わせの上着に、だらりと長いスカートをはいた女の人は、収穫前の田んぼで大きく風に揺れる黄金色に輝く稲穂のような髪の色をしていて、濃い茶色の髪の色の男の人のほうは、つんつるてんの吊りズボンを履きくるぶしの上のほうでギュッと結ばれた紐のついた分厚い靴底の茶色い革靴を履いていました。
 話ができるとわかると、怪訝そうにぶらんこの列に並んでいた子も、ジャングルジムの上で様子をうかがっていた子も遊ぶのをやめて降りて来て、進んだり後戻りをしたりしながら二人に近づいていきました。
 
 うんていの順番待ちの列を少しずつ前に進みながら自分の番を待っていた私は、子どもたちに取り囲まれて話をしている二人をじっと見ていました。
 女の人が、親切そうに小さな子どもたちに向かって微笑みかけているそばで、男の人は手に持った紙を配っていました。
 
 「順番がきたぞ、早く行け。」と後ろの同級生の男の子に背中をこづかれ、慌ててうんていの前に立つと、家で姉に教わったことを思い出しました。
「うんていの棒を両手でしっかり握ったら、最後の一本を見て、一回目をとじてから、目をあける。」と自分に言い聞かせながら、棒をしっかり握ってゴールの横棒を確認し、ねらいを定めて目を閉じてから、しっかりと目を開いて前に進んでみたら、急にはずみがついたような気がしました。
 姉に言われた通り、心の中で、左、右、左、右と言いながらよそ見をしないでゴールに向かって手を動かしてみると、ぐんぐん前へ進むことができたような気がしました。前の日は真ん中までしか進めなかったのに、もっと前に進んだような気がしました。
 それでも、やはりゴール直前で落ちてしまったので、赤くなった手の平を見つめながら後列の最後に戻って、残った横棒の数を数えました。あと2,3本でゴールというところまで来ていました。放課後姉に報告したら、ぜったいに喜んでもらえる、と思いました。
 背の高い上級生たちに交じって、一段とばしや二段とばしをしている同級生の手の動きをじっくり見ながら途中で落ちない工夫を考えているうちに、ふと校門の二人の大人のことを思い出して振り返って見てみると、二人はまだそこにいました。今度は、もっと沢山のこどもたちと話をしていました。
 うんていの自分の番が近づいてきていたのに、私は思い切って列を外れて、その人たちのそばに行ってみることにしました。
 
 真ん中分けの髪を襟の後ろで三つ編みにし腰のあたりでひとつに束ねた女の人は、日本語で「神さま」とか「イエスさま」の話をしていて、その横で男の人が子どもたちに紙を配っていました。私も紙がほしい、と女の人に言ってみると、その人は、私の家の裏手にある山の方角を向いて同級生たちに紙を配っていた男の人に、声をかけました。私には、その人の顔がよく見えませんでした。
 吊りズボンのサスペンダーのせいで、少し薄汚れた白いシャツの背中に大きなバツ印をしょっているように見えたのでかわいそうだと思いながら後ろ姿を見ていると、男の人はようやく振り返りました。
 何日も洗っていないのか、ぎとぎとしてつやのない髪の毛のその男の人は、黙って突っ立っている私の方を見ると、「もうありません。」というように悲しそうな顔つきをしながら、両手を腰のあたりで広げて、手の平を空に向けて軽く肩をすくめてみせました。男の人の円らな目は、髪の色と全く同じように濃い栗色でした。
 
 「休み時間おわるぞー。」と声を張り上げながら、ビラをもらった子どもたちが次々と運動場のほうへ走り出したので、紙がもらえなかった私も昇降口に戻ることにしました。
 手ぶらで校舎に向かって走っていたのに、急に、どこから来たのかだけは知りたい、という感情がこみ上げ、私は、走っていたのとは反対方向に踵を返しました。
 息を切らしながら、どこから来たのか聞いてみると、女の人のほうが「あめりか」と言いました。新しい町に慣れてきたばかりで「あめりか」を知らなかった私に、「がいこく」とも言いました。
 
 夜、茶の間の畳の上で、天井を見上げながら父の腕枕でごろごろしていた時、父に、「あめりか」と「がいこく」は同じなのかを尋ねると、父は、「あめりか」は、日本の外にあるたくさんの国のうちのひとつで、日本もまた「あめりか」から見ると「がいこく」なのだということを教えてくれました。
 どうやら天井裏の屋根の上の空の向こうには、まだまだ私が知らない世界があるようなのでした。

<次回に続きます。>

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忘れられない人々 10.駅前の風景

 ある日の夕方、母と私たちを乗せた父の車は、母の実家の玄関の前に到着しました。久しぶりに親せきが集うことになっていたのです。
 車を降りたとたん、裏玄関に回る母の背中に向かって、駄目と言われるのを覚悟で、仏壇に手を合わせる前に、駅前に行ってきても良いか訊いてみました。私の声がとどかなかったのか、母は返事をしませんでした。いつになく足早に歩いていた母が、台所脇の沓脱の板戸の外で急いで靴を脱いでいる背中に向かって、また、あいさつする前に駅に行ってきても良いか訊くと、母はようやく振り返って、行っておいで、と言ってくれました。
 
 玄関の前の道を渡り、通りを隔てた草地と小店の間の、きれいに雑草が刈り取られた小道の斜面を下りると、駅前の広場に出ました。
 
 だだっ広い広場の隅には、あの日と同じように、枕木が重ねて積んでありました。薄緑色の雑草に覆われた濃い茶色の枕木の数は減り、私の背高よりも、ずっと低くなっているように見えました。

 新しい家に引っ越す前に、脇の空き地でお友達と缶けりの約束をしていたすぐ上の姉について行って、細道の斜面をおりようとした時、前を歩いていた姉に言われて、茫々と脇に生えていた雑草につかまりながら用心深く歩いていたのに、ズックが脱げて、乾いた土の上で滑ってしりもちをついたことがありました。
 転んだ私にすぐに気が付くと、姉は、軽やかに体を左右に揺らせながら走り寄ってきて、素早くしゃがんでズックを履かせてくれました。

 姉に手を引かれて、細道をおりてようやく平地に下りた私が顔を上げると、急に視界が広がり、目の前に、姉の背丈よりもはるかに高く積まれた巨大な材木が積み重なる広場が現れました。
 材木の前に立つと姉は、私に向かって、うん、とうなずき、目の前をすたすたと歩いて行って反対側に回り、いとも簡単に、積まれた材木によじ登って、てっぺんまで上がって見せました。 
 家から保育園に歩く道のり、途中にある姉の友達の家の前辺りにあった塀の上に立っている姉は、一度だけ見かけことがありましたが、目の前で高い所に立つ姉を見るのは初めてでした。
 
 太陽を背に、背筋をすっと伸ばして両足を開いてバランスを取ってそこに立つ姉の髪は、肩の辺りで心地よさそうに風に揺れていました。
 私が呆然として見上げている間に、姉は、「いち、にの、さーん。」と大声をあげながら、急にそこから飛び降りてみせました。そして、着地に成功すると、素早く立ち上がり、しゃがんだ時についた両手の土をパンパンと払いながら、再び材木の上によじ登っていきました。
 姉が「いっち、にーの。」で、両腕を開く度に私は息を呑み、肩の高さまで両腕を上げ「さーん。」で、勢いよく枕木を蹴って空に向かって飛び上がり、うまい具合に着地に成功する姿を見ると、心からほっとしました。
 炬燵の上から飛び降りるのがやっとだった私には、塀の上からでも飛び下りられる小学生の姉が英雄に見えたのです。
 姉は、積んである枕木の端のくぼみにズックの先を巧みにひっかけながら、よじ登っては飛び、またよじ登って行っては、私の前で高く飛んで見せました。
 姉の手の平やズボンの膝は、日が暮れる頃には、真っ黒になってしまっていました。

 低い枕木の上に立って、駅の前をぐるりと見渡すと、右手に、近所のみんなが「ちゃやっこ」と呼んでいる小店が見えました。
 中に入ってお店の中をゆっくりとひとまわりし、壁際の台の上に無雑作に置かれていた駄菓子をひとつ手に取って、高い所に座っていたお店の女の人に「こんにちはー。」とあいさつすると、おばさんに100円玉を渡しました。引っ越し前は、姉と一緒にお店の中に入るや否や大声で話しかけてくれる人だったのに、その女の人は、私には目もくれずおつりを数えながら、他人行儀に「はい、どうもね。」と言っただけでした。
 
 小店のドアを出ると、私が数年前に、泣きながら保育園のお友達を見送ったホームがある駅が見えました。ふと、自分がいなくなった時、泣いたお友達はいたのかな、それとも、みんなママのように笑ってお別れができたのかな、と思いました。
 駅前の広場には、たまに一台か二台の車が停まるだけで、心なしか、以前より人通りが少なくなっているように見えました。
 それでも、母が生まれ育った家の前の駅舎と、駅舎の屋根の向こう側にそびえる祖父と登った山の緑だけは、以前と変わらず、静かにそこにたたずんでいるのでした。

 祖父母の家の裏口に戻ってみると、開けっぱなしの板戸の向こうから、にぎやかな話し声が聞こえてきました。
 誰が来ているかな、と思いながら、戸口の外の庭にまではみ出した、軽く二十足はある履物をつま先で踏んづけながら廊下に上がり、振り返って沓脱を見てみると、色とりどりの履物が脱ぎ捨てられていました。いつものように、大きいつっかけも、小さいズックも、きれいなサンダルも、踵がつぶれたのも、破けているのもありました。
 でも、私は、いつの間にか、沓脱の脇に設えられた流し台のすぐ横にきちんと揃えて並べてある祖父母の履物以外、どれが誰のなのかを言い当てることができなくなってしまっていました。
 

<次回に続きます。>

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忘れられない人々 9.図書室の窓

 次の日、小学校の図書室に向かうために教室を出た時、長い廊下の向こうから、一番上の姉が階段の方に向かって歩いてくるのが見えました。
 真ん中分けの長い黒髪を胸のあたりまでまっすぐに垂らし、ブラウスの下に短いプリーツスカート姿の姉は、お友達に囲まれ、にこにこ笑っておしゃべりをしながら歩いていました。
 
 講堂を角にはさんでL字型の大きな木造校舎の中では、かけっこではいつも一番で、休み時間の鬼ごっこでも、例え鬼になっても、広い講堂の隅のほうに逃げて行くお友達を、はやてのようにつかまえに行くことができるすぐ上の姉を見かける以外に、高学年の姉たちに出くわすことは、まずありませんでした。
 校舎の中で初めて見かけた一番上の姉の姿は、とてもおしゃれに見えました。
 すぐ上の姉のお古の、つんつるてんの洋服を着たおかっぱ頭の私は、うす汚れた自分の上履きに目を落として、髪を伸ばして真っ白いハイソックスを履けば、私も姉のようにきれいになれるのかな、と思いながら、廊下のつきあたりに向かって歩いて行きました。

 廊下の右側にある図書室の板戸の前に立ち、重たい板戸の上部にしっかりとはめ込まれた大きな明り取りのガラスに顔をくっつけて、手をかざして中をのぞいてみました。
 校庭に面した正面の壁には大きな木枠のガラス窓が何窓も取り付けられていて、左手の壁際には、窓と平行に本棚が数台同じ間隔で並べてあり、テーブルと椅子も何脚か置いてあるのが見えました。
 中には誰もいないようでした。
 本棚の陰で先生が見えないのかな、と思いながら戸を開けて中に入ってみると、やはりそこはしんとしていました。
 
 廊下に出て、丸めた模造紙のような物を脇に抱えて、すたすたと前方から歩いてきた女の先生をつかまえて、読みたい本があるから図書室に入っても良いか訊いてみると、その先生は、ガラガラと戸を開けて、先に中に入って行きました。
 
 先生に何の本が読みたいのか訊かれた時、「ユニセフ」だけは素早く口から飛び出したのですが、あれほど父が説明してくれたのに、たった一晩寝ただけで、それを「ゆにせふさん」という名の実在の人物だと思い込んで名前を覚える練習をしたこと以外全て忘れてしまい、自分が何を調べにそこに来たのかもわからなくなり、私は、急にきまりが悪くなりました。
 
 まごまごしていると、その先生はてきぱきと書棚の間を行ったり来たりして、自分で選んできた数冊の本を、わたしの前の細長い貸し出しテーブルの上に置くと、開けた本のページを見ながら、無雑作にその辺に置いてあった紙に「ユニセフ」とか「こくさいれんごう」とか、もっと長い漢字の言葉を次々に書いてから、「『ユ』『二』『セ』『フ』」と「『こく』『れん』」について丁寧に説明し始めました。
 先生は、漢字で書いた長い言葉の下に読み仮名をふって、それぞれのひらがなの下には暗号のようなものを書きました。それは、外国で使われる「英語」という言語の文字でした。
 先生の書いた字は整っていてとても読みやすかったし、自分はしっかり聞いているのに、架空の「ゆにせふさん」には、私が初めて見る英語の名前まであり、しかも自分はそれが全く読めないことがわかると、私は、すっかり途方に暮れてしまいました。
 
 誰かが呼びに来て、先生が片手に模造紙を持って、もう片方で板戸を閉めて図書室から出て行ってしまうと、私は、手元にあった本を何冊か窓際のテーブルの上に置いて、窓に背中を向けて座りました。
 小さい方の本は字が小さすぎて読む気になれなかったので、先生が目印に、と本の上のほうに挟んでくれた紙切れが見える大きい方の本のページを開いて、そこに書いてある文章を読み始めました。
 本のサイズや文字が大きくなっても、同じ行を行ったり来たりしながらじっくり考えても、何度繰り返して読んでみても、内容はさっぱり理解できませんでした。
 日曜学校で、うえむら先生の前で「マタイによる福音書」の第6章のページを開く時、隣に座った姉が、人さし指で行をなぞりながらいっしょに読んでくれても、なかなか「主の祈り」を覚えることができなかった私に、姉が「天に、まします、われらの、ちちよ」と短く区切りながら、わからない言葉の意味をひとつひとつ教えてくれると、とたんに暗唱できるようになったことを思い出しました。
 
 あとで姉に助けてもらえばいいや、と匙を投げて、本を閉じようとしたその時、堅表紙の裏一面に、きれいなデザインの洋服を着ておしゃれをしている人たちの絵が描かれているのが目に留まりました。
 一番右上から順番に、その人たちの服装を見てみました。絵の中の日本人の女の人は、黒い髪を結いあげて着物を着ていました。黄色い髪の人もいました。肌の色がわたしとは違う人もいました。面白い形の靴を履いている人もいました。
 描かれている人々の顔の色や髪型や帽子や洋服や靴のデザインはそれぞれに独特で、ぱっと引き立つようなものもあれば、あまり目立たないのもありました。私は、頬杖をついて、テーブルの上の本の上で、着せ替え人形のようにおしゃれをして笑っている人々の服装や身なりを見比べていました。
 小学校に入ったばかりの頃、外国とアメリカは同じなの、と訊いた日に、父が「アメリカは外国にあるたくさんの国の中のひとつだ。」と教えてくれことを思い出しました。それは、父が話していた外国の、各国の民族衣装を着た人々の絵なのでした。
 裏表紙をめくってみると、そこには、世界中の国々の旗の絵が描いてありました。私は、全部覚えるのは大変そうだ、と思いました。中には「日の丸」の旗もありました。
 
 うれしくなって立ち上がり、外の職員玄関の手前にあった国旗掲揚塔を見ようとして木枠の窓ガラスに近づいてみると、窓ガラスの向こうの校庭では、私や姉と同じような黒い髪の子どもたちが、仲良さそうに遊んでいるのが見えました。
 

<次回に続きます。>

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