バレンタインの贈り物は。。。

 2月14日、朝起きてみると、キッチンの窓の外の向こうに見えるクレッグさんのお宅の窓に、朝の陽光が反射して、窓ガラスがきらきらと輝いています。
 そして、我が家の庭にちょこんと座ったあるものも、存在感たっぷりにキラリッ!これは、昨日大切な誰かさんが作ってくれた私への贈り物!♡ その名も。。。

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 聞いてびっくり、見てびっくりの、この雪像の正体と送り主は、次回ご紹介しますので、どうぞお楽しみに!

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農場の垂訓。「雪道は、一目散に逃げ帰れ!」

 1月3日。前夜降り積もった雪も止み、からりとした晴天です。その日のうちに銀行や郵便局へ行ってこなくてはならなかったので、夫にそう告げると「何もこんな寒い中わざわざ郵便局まで行くことはないだろう。雪道で何かあったら大変だよ。」とたしなめられました。
 昨夜の雪道で、ほとんどフロントガラスに顔面を擦り付けるような体勢で運転していて、助手席に乗っていた彼に「運転かわろうか?」と訊かれたことや、その前日に「高速道路でおしゃべりに夢中になってしまって事故を起こすのは、女性の方が断然多いらしいよ。」と言われて「ああ、そうなの、やっぱりね。」と即答してしまったことなどを思い出し、夫に「めずらしく朝のうちに除雪車が来てくれたおかげで道路の雪はほとんどないから大丈夫。1時間で戻ってくるから。」と言い残し、彼の忠告を振り切って、ほとんどマイナス5℃の外気温の中出かけて用事を済ませた後、帰宅途中の出来事です。

 1時頃、いつも通るB氏の農道に右折すると、澄んだ空気の中、B氏の納屋の屋根だけでなく、さぎ池の湖水に張った氷の表面までもがキラキラと銀色の光を放ちながら輝き、遠くには鳥のさえずりさえも聞こえています。何て美しい日なのでしょうか!
 さぎ池に差し掛かる角を曲がる直前に、急に突風が吹いたので、景色を眺めていた私は、一旦車に戻って風が止むのを待ち、ゆっくりと再び車を発進させました。

 辺りの美しさにうっとりと見惚れながら「こんなに広くて素敵な農場を手放さなくてはならないなんて、Bさん、どんなにがっかりしているだろう。。。」「農場の経営ができる資金さえあれば私が農場主になりたいくらいなのに。」とか「ジョン・ディアー製のトラクターにいつか乗ってみたい。」などと夢を膨らませながら坂道を前進している途中、道路が真っ白であまりに綺麗だったので、また車を降りて再び農場に向かってカメラを抱えると、B氏の広大な農場に、再度一陣の風がわたりました。風に乗ったトウモロコシ畑一面の雪が、一瞬のうちに砂埃のように私目がけて吹き殴ります。視界が真っ白になったので、私は、大あわてで車に戻って、サハラ砂漠のど真ん中で砂塵嵐に遭遇したわけではないことに感謝しながら、暫くの間風が止むのを待ちました。

 数秒後、風が止んだようなので、さて、と車を発進させようとすると、車の車輪が先刻の横殴りの風で飛ばされ積もったばかりの雪にはまってしまっていることに気付きました。何度アクセルを踏んで車を前進させようとしても、タイヤがスリップして坂道を上ることができません。
「さあ、困った!」

 一時間に数台しか車が通らない農道には、何分経っても対向車が現れません。
 暫く経って後ろを振り返ると、150メートルほど後方の坂道の下のB氏のさぎ池の辺りに、やはり立ち往生してしまったのか、私の家の裏の牧場主R家の長男Bくんの比較的大きな白いピックアップ・トラックが止まっているのが見えました。「ああ、よかった!」あとは、B君のトラックが私の車を追い越して行った後、一旦車をバックさせてから彼の大きなトラックの車輪の跡を踏んで車を前進させれば良いだけです。
 と、胸をなでおろしたのも束の間、何を血迷ったかBくんが運転するピックアップ・トラックは、猛スピードで道路をおりると、右手の池の後方の畑に乗り上げ、そのままものすごい勢いでトウモロコシ畑の急勾配を上り始めました。
 どうにかしてBくんが気がついてくれるように、私は右手を大きく振りました。すると、彼が運転するトラックが私の車から少し離れたところで一旦スピードを緩めたので、私は再び助けを求めようと思い「ハロー!B!」と、右手を大きく振りました。すると、Bくんは、運転席の窓を閉めたままうなずき一瞬にっこり微笑んで、再び前進する体勢に入ってしまったのです。私は、自分の車の窓が閉まったままだということも忘れて、私を置いて猛スピードで去り去る彼のトラックに向かって「B!」「B!」と大声で叫び続けました。
 B君が戻ってくるのを期待したのですが、5分待っても彼は現れませんでした。近所の銀行に行くだけだから、と携帯電話を家に置いて出てしまった私は、「降参しました。」の合図に車の窓からハンカチをはさんで垂らし、上り坂の途中に愛車を置き去りにして、家まで1マイル(1.6キロ)弱歩いて帰るか、なんとか車をバックさせてB氏のドライブウェイで方向を変えて大通りに出て、もう一本のルートで帰る方法を選ぶしかありません。私は、雪にはまったタイヤを何度も前後させてみて、ようやく車がバックできることを確認すると、ゆっくりとB氏のドライブウェイまで約80メートルほど車をバックさせました。

 ところが、まだ排雪の終わっていなかったB氏のドライブウェイに後進したところで、再び車のタイヤが、雪の中にすっぽりと埋もれてしまったのです。ローファー履きを悔やみながらドアを押し開け、雪の中をズボッズボッと跳ねながら、一旦車から降りて見てみると、朝のうちに除雪車が排雪した、塩が混ざってずっしりと重たい雪が、B氏のドライブウェイに降り積もった新雪に重なって、私の車の左の前輪のまわりは、一部約10センチ以上の積雪に埋もれてしまっています。私は、車の中の筒形のコーヒーマグをつかんで、その中の飲みかけのコーヒーを雪の上に捨てると、再びズボズボと雪の中に戻り、素手のまま、持っていたマグカップで、左の前輪の後方の雪から、えっさっほらさとかき始めました。
 数分後、マグカップで雪掻きをしている私の前の農道を、ついに大型のゴミ収集車が通りかかりました。農道に出てトラックが残して行った巨大な車輪の跡を確認すると、私は再び車中に戻り、また外へ出てせっせとタイヤの回りの雪掻きに励みました。
 
 哺乳瓶ほどの大きさのマグカップでようやくタイヤを動かせるほど雪を払ってから顔を上げると、B氏のドライブウェイの奥の母屋のほうで、ジョン・ディア製のブルドーザーに乗って除雪しているB家のKくんの姿が見えました。
 かじかんで真っ赤になってしまった左手を右手で摩りながら、再び運転席に戻ってエンジンをかけ、暖房を全開にして数分間暖を取ると、私は、4年前の大雪の日に、同じように — あの日は農道自体の積雪が5センチ以上はありました。 — 車が雪道にはまって車輪が埋もれてしまった時に夫が教えてくれたように、少しずつタイヤを前へ後ろへと動かしながら、徐々に車輪の前後の雪を踏み潰してから車を前進させ、ついに農道に戻ることに成功しました。
 私の車が農道に戻る直前に、通りかかったご近所の旦那様が運転する黒のピックアップ・トラックが、かなり通り過ぎてから後戻りをして近づいてきてくれるのが見えました。
 私は、トラックの後方からご夫妻に向かって大きく右手を振ると、数十分前には上ることができなかった農道を、再び我が家を目指して走り始めたのでした。

 帰宅後、夫に事の顛末を話して聞かせると、雪国オハイオ州出身の彼は、「きっと、BくんもKくんも、君が、いつものように農場の写真を撮っていると思い込んでしまったんだね。やはり僕の忠告通り、今日は出掛けるべきじゃなかったってわけだ。大体、助けを求めるときには、にこにこ笑って『HELLO (ハロー)』ではなく、困った顔をして『HELP(ヘルプ)』と叫ぶべきだし、右手を上げるのではなく、両方の手をクロス(x)にしながら何度も何度も大きく振ってSOSのサインを送るべきなんだよ。片手を挙げて振るだけじゃあ、手を振っていつものあいさつをしているだけだ、と思われるからね。次に出かけるときには、携帯電話と手袋と毛布を持ってでかけたほうが良いよ。」と、のたまうのでした。

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雑感 ~ 父からのエアメール

 エアメールという言葉を聞く機会が少なくなってしまった昨今ですが、私の郵便ポストには、一ヵ月に一度、楽しみにしているエアメールの封書が届きます。それは、日本の父が家族や親せきに宛てて発行しているニュースレターが入った封筒です。
 
 父は、平成12年の3月21日に、娘たちへの連絡のための「おたより」と銘打って、不慣れなパソコンを使ってニュースレターを印刷し始めました。
 当初、一枚のレターサイズの紙の裏と表のみに印刷された娘たちへのおたよりのはずだったニュースレターが、そのうち、父の思い、実家の周辺の様子、実家の出来事、私の祖母の昔話、娘達やその家族の動向、各家の系図、親類縁者からの投稿、友人・知人からの投稿などの記事が掲載されるまでになりました。父は、パソコンが壊れると丁寧な手書きで書き綴って発行して送ってくれます。

 平成23年12月、父はそれまで書き溜めていたニュースレターを、地元の印刷会社に依頼して一冊の分厚い本として製本し、亡き母に捧げる形でまとめ、夫と私にも進呈してくれました。父は、平成24年の6月13日に2巻目をまとめ、また翌年の6月には3冊目も刊行しました。
 愛する妻を失った苦しみや悲しみを乗り越えて、日々、小さなことに見い出す感動を文章に託し、沢山の思いを分かち合ってくれる父の生き方はさり気なく素敵で、日々、私を支え続けてくれています。

 私の郵便ポストに先日また、父が編集したばかりの224号、平成25年の11月15日発行のおたよりが届きました。

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<この写真は、母のお墓があるお寺で父が撮影し、11月29日にメールに添付して送ってくれたものです。

コーヒーの注文を拒んだアメリカ人のお話 

 今日は大変暑い日なので、庭仕事に一段落ついた後、フェースブックのDIY Homedecoratingのエスプレッソで作るアイスキューブのアイディアを思い出し、久しぶりにアイスコーヒーを淹れてみることにしました。
 コーヒーといえば、日本の実家の父ほどおいしいコーヒーを淹れる人に出逢ったことはありません。コーヒーの淹れ方にこだわりのある父を思い出しながら、夫もよくコーヒーを淹れてくれるのですが、コーヒー豆なのか水なのか淹れる人の技なのか、父の淹れるコーヒーは格別の味わいがあるような気がします。

 ところで、今日アイスコーヒーを淹れながら、私達一家がまだ日本に在住していた折、アメリカ人の夫の両親が2週間ほど滞在した際に起きたある事件を思い出しました。
 この事件については、過去にブログで「コーヒーを拒んだアメリカ人の話」と題して2回にわけて紹介したことがあったのですが、数年間ハードドライブにしまい込んだままだったので、今日あらためて読み返してみると当時の出来事が次々と思い出され、胸が熱くなりました。
 以下に数年前に書いた「コーヒーの注文を拒んだアメリカ人の話」を抜粋し掲載しますので、お時間がありましたらぜひご一読ください。

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 横浜へ引っ越す前に、私たちが住んでいた葉山の借家の二階の窓からは、海岸線が眺望でき、晴れた日には富士山も見晴かすことができました。
 日曜日には、夫と二人で急勾配を徒歩でおりて近所のベーカリーで焼きたてのフランスパンを調達し腕に抱えて帰宅する途中、近所でも評判の喫茶店へ立ち寄ったりしたものでした。
 葉山の家を引き払って、横浜市の根岸の高台の家に住み始めて数ヶ月経った頃のことでした。
 その夏、夫の両親が、オハイオ州から遊びに来ていました。
 子どもたちが全員学校から戻るまで、私が義父母を元町へ連れ出したり海辺にドライブに連れて行ったりして過ごしていました。

 ある日のことでした。
 仕事から帰った夫が、ちょうど夕刻に葉山で用事があった私に、「両親もいっしょに連れて行ってあの店でコーヒーを飲んで時間を潰すよ。」と言うので、私たちはわいわいと車に乗り込んで、葉山に向けて出発しました。
 用事を終えた私を迎えにきた夫に「喫茶店はどうだった?」と訊くと、夫が「ああ、あそこではコーヒーを飲まずに、海岸沿いのデニーズへ行ってきた。」と答えました。
「え?あの喫茶店へは行かなかったの?」と、両親のほうに向き直ると、「あのデニーズは素敵ねえ。とても楽しかったわ。」にこやかな笑みを浮かべながら、夫の母が言いました。
 普段から無口な義父は口を閉ざしたままです。「デニーズでコーヒーを飲んだ。」という夫は、心なしか口数が少なく、祖父母といっしょに座っている子どもたちもいつになく静かなような気はしましたが、「ああ、よかったじゃない、私もあそこのデニーズ大好き。コーヒーもおいしいのよね。」と言うと私は、遠景に江ノ島を臨む逗子海岸沿いに建つデニーズの周辺の海辺の景色を思い浮かべながら、義父母が、そこまで足をのばしてあの辺りの風景を堪能することができたということを喜び、車中、夫の両親と滞在中の今後の計画などを話し合いながら時間を過ごしました。

 帰宅後、両親が二階へ上がってしまうと、夫が「どうしてあそこの喫茶店に行かなかったと思う?」と訊きました。
「さあ。」そんなこと今の今まで知りたいとも思いませんでしたが、夫は普段そんな他愛のないことを質問するような人ではありません。含みのある夫の態度が気になったので、一応「どうしたの。」と訊いてみました。夫は「やれやれ。」と言いながら、デニーズへ出かけることになるまでの事の顛末を、私に語って聞かせました。
 夫の話を要約すると、私がいない間に、こんな出来事が起こっていたのでした。

 葉山の民家風の喫茶店に着いた一家が、通されたテーブルに着くと、夫にメニューが渡されました。
 夫がコーヒーを注文し、父親に何を注文するか尋ねると、父親もコーヒーを注文しました。
 ところが、コーヒーの値段を知った父親が、前言を撤回し「やはり私は何も飲まない。」と言い出したのです。夫は「父さん、ぼくがご馳走するよ。」と言ってコーヒーを注文するよう促しましたが、父親は「こんな高いコーヒーなら飲まなくてもいい。」と言い張ります。すると、父親の顔色を窺った母親も「それじゃ、私も、お水だけ頂くわ。」と言いました。
 夫は、やむを得ず自分のためのコーヒーと、子どもたちが食べたいといった物だけをウェイトレスの女性に注文しました。すると、ウェイトレスは丁重に「お席に着いた方全員が何か注文してください。」と言ったのです。そこで、夫は、両親に「飲まなくてもいいから何か頼んでくれない。」と、根気強く頼みました。お店の方にこの喫茶店の仕組みを説明されても、夫の父が「何もいらない。」と拒み続けたため、義母も何も注文できませんでした。
 こうして、ファミリーは、お冷が運ばれてきたというのに、仕方なくその店を出る羽目に遭ってしまったのです。

 夫の話を聞いた後「本当に、その女の人は、一人一品注文してください、って言ったの?あなたの勘違いじゃないの?」と私が尋ねると、夫は、ウェイトレスが全員に向かって「何か注文するように。」と人差し指を上に向けて立てながらゆっくりとジェスチャーを混じえて促し、しかも、カウンターでマネージャーらしき男性に話をしてから二度目に戻ってきたときも、同様の態度をとったというではありませんか。
 
 夫は悔しそうに、「父さんに、日本の民家はこういう造りなんだってのを見せたかったんだけど、一杯のコーヒーに1ドル以上払ったことがない父さんには、6倍の値段を払ってまで日本建築の勉強などする必要はない、ってことだったのさ。」と毒づきました。

 その数日後、夫の両親は、私の両親の招待で、東北地方にある、とある格式高いホテルに泊まることになりました。
 そして、くだんのコーヒーにまつわる事件は、夫の両親がこのホテルに滞在中に起こったのでした。
 
 実家では、私たち夫婦と子どもたち3人が母屋に寝泊りし、義父母が母屋の前の小さなゲストハウスに滞在していたのですが、ある朝、私の父が、夫の両親のためにホテルの宿泊を予約する、と提案してくれました。
 母屋から離れて静かに眠る場所があるだけでも有難いのに、皇室御一家がご静養のためにご利用されるあのホテルに一泊なんて、なんて粋な計らいでしょう。
 私たちは、その午後喜びいさんで、夫の両親をそのホテルへ連れて行きました。
 義父母の泊まる洋室には、心地よさそうな羽毛のブランケットが掛かったベッドがふたつあり、窓の外の景色も抜群です。当時ゲストハウスには風呂場がなかったため、義父母は母屋にシャワーを浴びにきていたので、ホテルの部屋の一角に浴室を見止めた義母は、少女のようにうれしそうな表情で顔を綻ばせました。
 ゆっくりと和の風情を味わってもらえたら良いね、と、言いながら、夫の両親とわかれ、私たち夫婦と私の両親はホテルを後にしました。

 翌朝。チェックアウトより小一時間早く、私と夫がホテルに着きました。
 夫の両親の泊まった部屋に入るや否や、義母が、待ってましたとばかりに、昨夜からの愉快な出来事や経験を、微に入り細にわたり喋り始めました。
 昨夜のうちに温泉にも入り、朝食も堪能したという義父は、いつになくうれしそうに満面に笑みを浮かべ、寛いだ表情で義母の話に耳を傾けていました。
 夫も、おもしろそうな様子で、「へえっ、父さん、温泉にも入ったの?母さんも、温泉に入ったの?」などと矢継ぎ早に質問をしています。
 自分は外に出歩かず室内のシャワーを使ったという義母が、「私は部屋でゆっくり過ごしたけれど、父さんったら、夕べもホテルの中をあちこち覗きに行ってたの。朝から浴衣のままで出たり入ったり、庭園を眺めながら回廊を何度も歩き回ったらしいのよ。貴方たちから離れたらじっと部屋にこもるかと思って心配したけど、父さんもとてもエンジョイしてたの。今朝もコーヒーもたっぷりいただいて、ご満悦よ。ほら、コーヒーさえあれば、父さんは機嫌いいでしょ。」と言いました。

「へえ。部屋にはコーヒーメーカーも付いてるの?」と夫が訊くと、「ここにはないけど、ロビーでね。」と義母が答えました。
「父さん、あそこで自分でコーヒーを注文したの?」
「何杯もおかわりしたそうよ。とうさんったら『アリガドー(ありがとう)』が板について、ウェイトレスの女の子がコーヒーを持ってきてくれるたびに『アリガドー』を連発したそうなの。言葉が通じるとわかって、大はしゃぎよ。」
 すると、間髪を入れずに夫が「父さん、コーヒー何杯おかわりしたの?」と訊きました。自分の話す日本語が通じて気をよくしたという父親は、誇らしげに、「小さなカップだから、何杯もおかわりしたかな、10杯は飲んだと思う。」と言いました。
 少し間をおいてから、夫が「10杯。。。それで、父さん、そのコーヒー代は、もう支払ったの?」と訊き返しました。
 すると、義父は、支払いをせずに『アリガドー』と言い残して部屋へ戻ってきた、と言うではありませんか!

 まあ、なんということでしょうか。夕べのうちに、東北地方で何杯おかわりしても値段が一律なのは「わんこそば」だけだということを夫の両親に話しておくべきだったのです。確かわんこそばだったら、例え120杯食べても、追加料金の支払いはしなくて済むはずです。
 
 「アメリカ大統領とか有名俳優ならともかく、一般の宿泊客は、コーヒーの代金を支払わずに部屋へ戻ってはいけない、ということを父さんに言っておくべきだったよ。」両親に背中を向けた夫が、大真面目な顔つきで言いました。
 私は、「もしかすると、ウェイトレスの女性、お義父さんがケニー・ロジャースだと思ったのかもよ。部屋代と一緒に請求がくるとか?」と冗談で混ぜ返しましたが、小さなコーヒーカップに注がれる一杯のコーヒーの代金を知っている夫の表情は青ざめたままです。
 私は、浴衣姿でコーヒーを注文する義父の寛いだ表情と、傍らで「もう一杯如何ですか。」と謹しくコーヒーを勧めるウェイトレスの女性とのやり取りを想像してみました。
 それにしても ― 。一体全体、うちのお舅さんは、どうやって一銭も支払わずに自室へ戻ることができたのでしょうか。

 ふと気がつくと、いつの間にか、そこに私の両親が立っていました。
 夫が黙りこくったままなので暫し沈黙が流れましたが、私は一息に、私の両親に今朝起こった事の顛末を話して聞かせました。
 父はにこやかに「ああ、そう。」「ああ、そう。」と頷きながら私の話を聞いた後、「まあ、いいんじゃない。コーヒー飲み放題のサービスもついたってことだ。」と高らかに大笑いしました。
 
  数分後、一同は、ロビーの円卓を囲んで座っていました。
 ウェイトレスの女性が近づくと、父は、メニューを見ないで、「コーヒーを、6つ、お願いします。」と注文しました。
 窓ガラスの向こうの中庭には、よく剪定された南部の赤松が、重厚な日本建築のホテルの外観に、更なる和の趣を添えているのが見えました。

 
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妻よ、株は君が増やせよ。

 数年前まで、私の家から少し離れた農村部に、町はずれの刑務所で看護師の仕事をしているカナダ人の友人が住んでいました。彼女は、50エーカー以上の土地の一角に羊を飼い趣味でウールのひざ掛けなどを作りながら暮らしていました。看護師の資格を取る前に専門的にテキスタイルを学んだというだけあって、室内装飾やカーテンやソファーの生地や色合わせにこだわり、フィラデルフィアの建築会社で働くアメリカ人の建築家の夫と二人で、リビングルームの床板を張ったり壁にペンキを塗ったりしながら、自分の発想を日々の暮らしの中で見事に具現化させながら人生を謳歌しているのでした。
 
 私が彼女に初めて会ったのは、日本から越して間もない2001年の冬、新しい学校に転校したばかりの長男が「学校のカフェテリアで『スーシー(「ス」にアクセントを置きます:寿司)が大好きだ。』という子としゃべれて、とてもうれしかった。」と言いながら帰宅した数日後、寿司が大好きなその子が、週末に息子を家に招待してくれ、母親であるJと中学生になったばかりの彼女の娘が息子を迎えに来てくれた時のことです。
 子どもたちをお互いの家に送り迎えしているうちに意気投合し、そのうちJと私は、一緒にランチへ出かけるようになりました。カナダのノヴァスコーシャ出身の彼女は金髪碧眼で英語を母国語としていても、「ここではあまり親しい友達ができない。とても閉鎖的な土地柄で、娘も仲良しの友達ができない。」と、しばしばこぼしていました。ふたりでどこかへ出かける時彼女はよく「移民」という言葉を使ったものでした。プライス・ライトという食料品店に出向いた時も - そこは商品の値段が非常に安価でメキシコ料理の材料となる品揃えが豊富なせいか、南アメリカからアメリカ合衆国に移住してくる買い物客が多い場所なのですが— 、そこでも「ここには私達のような移民が多くいるのね!」と感嘆の声をあげていました。
 
 ある日の午後、いつものように二人で掘り出し物がないかどうかグッドウィルを覗いて、行きつけのチャイニーズ・レストランでランチを堪能した後、彼女の牧場で羊に餌をやっていた時のことです。
 Jは、「そうだ、M。私ね、知り合いにジャーマンアイリスとホスタスを沢山もらったのよ。あなたにも株を分けてあげるから、バケツに水を張ってその中に入れておいて、2,3日中に土に植え替えるといいわ。このギボウシという植物は少し大きくなったら、根っこごと切り分けて移植しながら増やしていくといいのよ。」と言うと、ボルボの後ろに牽引車を取り付けDIYのお店から自分で運んだ何トンもの土と根覆い用のマルチを積み上げて作った花壇から、球根から生長して花が咲く直前のジャーマンアイリス何本かと小さなギボウシの株を掘り起こして、少しずつ分けてくれました。
 帰宅した私は、早速土を掘り起こしてせっせと小さな株を植え始めました。その秋には、少し大きくなったギボウシを、言われた通りに根っこごと半分に分けて別の場所に植え付けてみました。
 
 そして、翌年も、そのまた翌年も。。。
 
 私の株はどんどん増えていきました。Jがフロリダに家を買い、両方の家を行き来しながら暮らすパターンを続けそのうち向こうで生活するようになってしまってから再会することはなくなりましたが、彼女がくれたギボウシは、今では車庫から玄関へと通じるウォークウェイ沿いに家を囲むような形で42株に増え、裏庭のほうも30株ほどに増えました。玄関前のは真上から見ると直径が80センチ、花をつけると高さも140センチほどのジャンボサイズに成長したので、遠くから眺めてもかなり圧巻です。

 先月咲き始めたギボウシの小径を眺めながら夫は、しみじみと「ボクの方のストックマーケットの株はさっぱりだけど、家の前の株は見事なものだ。Mちゃん、株は、君が増やせばいいよ。」と、のたまうのでした。

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