忘れられない人々 14.ピアノの部屋

 その部屋の扉を開けると、左手の壁際に設えられていたピアノの鍵盤に向かって、一番上の従姉のHちゃんが楽譜をめくっているのが見えました。
 今日は一体何を歌うんだろう、と思いながら、神棚と仏壇が祀られた畳の部屋と洋室の間に敷かれている床をトンと一段下りて洋室のほうに入ると、私は、白いレースのカーテンがかかった窓際に置かれた長椅子のほうに向かって行きました。
 
 長椅子には、新しいクッションが3つ置いてありました。薄紫や薄い桃色の生地を触りながら、折り紙細工の幾何学模様を施したような布表のデザインを見つめていると、ピアノの椅子に座って合唱のための曲探しをしていたHちゃんが振り返り、それは薄手の風呂敷で作られていると教えてくれました。
 叔母が裾のほころびを縫い直したばかりの、まっ白い木綿のカバーが破けないように、そっと長椅子の左端に上がって窓の外を見てみると、駅の向こうに、引っ越しする前に、キノコとりに行く祖父を追いかけて登った山が見えました。
 山は、以前にまして緑がより鬱蒼としているように見えました。
 窓の外を眺めていると、あの時、祖父と歩いた水田のあぜ道の風景が、まざまざと脳裏によみがえってきました。
 
 稲刈りはまだまだだな、と思いながら、緑たわわに生い茂る山に面したあぜ道にぽつんと立つ、傾きかけたハサ小屋に積み重ねられた丸いハサに気を取られながら、水田の細い畦道を歩いていると、どんどん先を歩いていた祖父が、一度だけ振り返って「かっぱ取るなよー。」と大声で叫びました。
 その言葉を聞いた私は、ぬめりのある畦道の草の上で滑って泥にズックをとられないように用心深くしゃがみこむと、風に揺れる稲穂の間から田んぼの水面をのぞき込みました。見ると、水面下に沈殿した泥土の中から、小さなカエルが顔を出していました。
 カエルを見ているうちに、さかなやのママの語り部の「河童」の姿を思い出して、その小さなカエルがいきなり、絶対そこにはいるはずのない河童に変身して、稲穂の溝の泥土の中から物凄い勢いで私の顔をめがけて飛び出して来そうな気がしてきました。
 急に背筋がぞっとして首を上げると、左手の方向に歩いていた祖父を探しました。祖父は既に、ずっと先を歩いてしまっていました。
 とうにハサ小屋を通り過ぎて、あぜ道のもっと先に建つ納屋の方に向かってどんどん進んでしまっている祖父の麦藁帽子を見とめて飛び上がると、私は、畦道の草が湿って地面がぬかるんでいることもすっかり忘れて、一目散に駆け出しました。
 途中でズックがズルッと滑って片方が脱げかけてカパカパ鳴っているのも気にせずに、私は、ひたすら祖父の背中だけを目指して、一心不乱に走り続けたのでした。

 ピアノの部屋では、久しぶりに会った従姉妹たちやわたしの姉妹が、それぞれに楽譜を持って、Hちゃんの伴奏で歌ったりおしゃべりをしたりしていました。
 合唱が終わり、Hちゃんが、洋間の棚の上に置いてあるレコードプレーヤーの上のレコードが傷つかないように、針先を見つめながら盤面にそっと針をおろして、黒いレコードが歪みながらぐるぐると回り始めると、叔母は「くるみわり人形」とか「白鳥の湖」とか「眠れる森の美女」とか解釈を付け、その度に、従姉妹たちが、オウム返しに叔母の言葉を繰り返すのでした。
 
 小学校に上がるずっと前にバイエルだけでなく既に沢山の練習曲を終えていた一番上の姉や、手の指だけでなく足の裏まで使ってエレクトーンを弾いていたすぐ上の姉や、教本を使わなくてもそらで曲が弾ける従姉妹たちに混じって、そこには、琴以外は何も弾けない私も座っていました。
 ピアノが弾けない私は、叔母やHちゃんが選ぶ曲のレコードに耳を傾けながら、本棚の中の本を探していたのです。
 ピアノの部屋の本棚には、沢山の日本の昔話や『アンデルセン童話』や『グリム童話』など挿絵がきれいな外国の絵本がぎっしりと詰まっていました。
 その日、私が夢中で読んだ中でとりわけ気に入ったのは『はだかの王様』」でした。
 次々と別の本を取り出しては本棚に戻し、また取り出してはページをめくり、最後の一冊を読み終えた私がふと顔を上げると、楽譜を持った従姉妹たち全員が、Hちゃんの伴奏と叔母の指揮で『羽生の宿』を歌っていました。
 一段下の洋室の床に座ったまま見上げると、和室と私が座っている場所を仕切っている板敷の床が、まるで舞台のように見えました。
  
 玄関を入ってすぐのその部屋に続く扉の前に立つ時、いつもドアノブを回すのをためらってしまうその扉の内側の不思議なその空間で、その日、私は、床にペタリと座って寛ぎ、いとこたちは、私の後方の駅舎の裏山に向かって「羽生の宿」を歌っているのでした。
 従姉妹たちの足元の向こう側には、ちらりちらりと畳の部屋の仏壇の座布団がのぞいていました。私は、しばらくの間、まどろみを誘うような従姉妹たちの優しい声音に耳を傾けながら、目の前の光景をぼんやりと見ていました。
 それから、慌てて本を閉じると、ステージの後ろに回って列の隅の方に加わり、おもむろに誰かの譜面をのぞき込んだのでした。

 <次回に続きます。>

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忘れられない人々 13.一粒のお米

 ようやく新しい小学校に慣れてきて、集団登校もしなくなると、私は、もうひとりのお友達の畳屋のKちゃんといっしょに、祖母のお店から小学校へ続く一本道を歩いて通学するようになりました。
 学校帰り、ガソリンスタンドのT字路でKちゃんと別れる頃には、温泉街の入り口の角に建つ祖母の米穀店の看板が見えてきました。
 
 いつものように、Kちゃんは、ガソリンスタンド脇の急こう配を下って自分の家に向かいました。Kちゃんは足取り軽くその小路を駆け下りていくのですが、私がKちゃんの家へ行くときは、少し先の家の前の杉並木に沿った平坦な小径を通るのが好きでした。
 畑を通り過ぎて、商店街のお菓子屋を営んでいるおじさんの家の青いトタン屋根や、理容店の有平棒がグルグル回っているのを見ながら八百屋の前にたどり着くころには、とたんに足の疲れがなくなり、ふたをし忘れたランドセルがパカパカ鳴って中から教科書や筆箱が飛び出すほどの勢いで、祖母のお店の手前のT字路まで全速力で走り切ることができました。
 
 エンジンをふかしたまま店の前に横づけしたトラックの荷台には、その日も、ランニングシャツを着たおじさんが2人立って、腰のあたりまでベルトがずれ落ちた薄茶色のズボン姿の黒縁眼鏡のおじさんに掛け声をかけながら、半俵の米袋を渡しているのが見えました。
 通りの向こうから、黒縁眼鏡のおじさんに「M、車来るぞー、気を付けろー。まだ渡るなよー。」としゃがれ声で怒鳴られる前に、いったん止まって右手のゆるやかな坂道を車がおりてきていないことを確認すると、急いで通りを渡ってお店の中に駆け込みました。
 それから、ズックを脱ぎ捨ててレジの奥の畳の部屋の祖母の座布団の脇にランドセルを下すと、飴色の陳列棚の中のお菓子をひとつもらって階段のほうからぐるっと一周して、旅館に配達するために積んである袋のてっぺんに腰をおろしました。そして、邪魔にならないように、3人が威勢よく作業に励む姿を眺め始めました。
 
 荷台の前の方に立ったおじさんが、よいしょと重たい袋を持ちあげると、後ろのおじさんに渡し、そのおじさんがトラックの下でお店の中に運ぶおじさんに渡すのです。日焼けした眼鏡のおじさんは、半俵の袋でも軽々と受け取ってはひょいっと肩にのせて、大股でお店の中に入ってきます。おじさんは、15キロのは2たい重ねて一気に担ぐことができました。10キロのは3袋重ねて運びます。額に手ぬぐいを巻いていても、おじさんたちの顔にはうっすらと汗がにじんでいました。
 
 ようやく作業を終えると、黒縁眼鏡のおじさんは、一息入れるために表に置いてあった丸い木製の腰かけに座ってタバコをふかし始めました。
 ひっきりなしに入れ替わるお客さんと畳の部屋にある電話の応対と、奥の壁面いっぱいのガラスの引き戸の前での売り上げの記帳とをひとりで切り盛りしながら、入り口で一服している米協のおじさんたちと大声で会話を続けている祖母に一声かけて、私は少し離れたところに建つ自分の家へ帰りました。
 
 食事の時間が終わろうとしていた頃でした。
 姉たちが「ごちそうさまでした。」をして手を合わせた後も、いつものようになかなかご飯を食べ終えることができなかった私は、食器洗いをし始めた母が背中を向けている隙に、中に半分は残っていたご飯茶碗のご飯を床に落として、「ご飯が床に落ちたから食べられなくなった。」と言ってしまったのです。
 
 母は、ぬれていた両手をエプロンの裾でぬぐいながら振り返ると、自分の手で、私がわざと床に落としたご飯粒を全て拾って私のご飯茶碗に戻して、一粒のお米を作るには農家の人々が朝から晩まで働いても一年かかることや、世の中にはご飯も食べられない人がたくさんいることを話し始めました。
 嘘をついた私のことを咎めずに「落ちたご飯は食べなくて良い。」と言って母が台所を出て行ってしまった後、ご飯茶碗を覗いてみると、せっかく母が焚いてくれたご飯が、すっかり冷えきって少し汚れてしまっていました。
 茶碗に顔を近づけて、「1、2、3、4、、、、」と数えているうちに、お米の粒の輪郭がゆがみ始め、私の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ出しました。
 箸で一口、冷え切ったご飯を口の中に押し込むと、私は、誰もいなくなってしまった台所の中で一人、泣きながらご飯を食べ続けました。
 
 
<次回に続きます。>

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忘れられない人々 12.ロシアからの贈り物

 駅前の母の実家の茶の間の茶箪笥の一番右端には、東京のデパートの食堂で見た外国製の「こけし」が飾ってありました。
 茶箪笥の横の座卓に座っていた叔父に、誰のお土産なのかを聞くと、叔父は、その時帰郷していた東京の叔母の名前を言いました。
 東京のデパートの食堂では、叔母はその「こけし」が来た国へ行ったことがあるなんて言わなかったような気がするのですが、叔父は自慢げに、卓上にお茶を並べてから空のお盆を持って立ち上がりかけた義叔母さんに、その「こけし」の前に立てかけてあった葉書を中から出して私に見せるように、と話しかけました。
 茶箪笥の中の外国製の「こけし」の横には日本のこけし人形が置いてあり、そこにはほかにも様々なお土産が飾られていました。

 義叔母さんが私の目の前に差し出した葉書を見ると、細かい字で手紙がしたためられてありました。
 よく見ると、葉書の真ん中には縦線が入ってふたつに分かれていて、右側には住所を、左側には手紙が書けるようになっていました。デパートの食堂で叔母が説明していた通りでした。
 ひっくり返してみると、裏には風景写真が載っていました。縁がくたくたになって表がちょっと汚れていたその葉書を、叔父は何度棚の中からとり出して読み返したのかな、と思いました。

 二階の広い三間続きの座敷の畳の上を隅から隅まで走り回っては、廊下に出て3ヶ所に設えられた階段に分かれてどすどすと駆け下りたり駆け上がったりする子どもたちの足音に交じり、仏壇が置いてある六畳間の隣のピアノの部屋からは、従姉が奏でる「エリーゼのために」の旋律が聞こえてきました。
 台所の方からは、伯母たちが、割烹着姿でガスコンロに向かって料理する祖母のそばで、茶碗を洗ったり、カチャカチャと小さな音を立てながら、食器棚の中から和食器を取り出して手際よくテーブルに並べている様子が伝わってきました。

 東京から叔母が送ってくれた小包の中に入れてあった私への贈り物の肌着には、ひらがなで2文字しか私の名前は刺繍されていなかったし、肌着といっしょに入っていた私宛の小さな便せんには、「お元気ですか。」とか「さようなら」とかでなく、丸みのある大きな文字で、縦二行に分けて右から「かんせいって、やっぱりみがけばひかるみたい」とだけしか書いていなかったので、叔母がその葉書の送り主だということを知って驚きました。
 父に説明してもらわなければ、叔母の書いた二行の意味さえやっとだった私は、細かい字で埋められた大人に宛てたこの葉書には、一体何が書いてあるのだろうと思いました。

 じっとその葉書を見ていると、障子の向こうの台所脇の沓脱のほうから、台所に向かって挨拶している男の人たちの声が聞こえてきました。
 顔を上げると、従兄のSくんが「おうっ。どうも、どうも。」と言いながら、お辞儀もせずに入ってきました。Sくんのパパの顔も見えました。
 お酒の配達を終えて店が一段落してから義伯父といっしょに遅れて入ってきた群青色の運動着を着た従兄は、野球帽を脱ぎながら、あたかも昨日も私に会ったかのような口ぶりで「学校どうだ。」と、私に話しかけてきました。

 茶箪笥に葉書を戻しながら、日本のこけしの横に並べてあった外国製の「こけし」を見ていると、叔父が中から出して見て良いぞ、と言いました。
 東京のデパートの食堂でケースのガラスの向こう側に飾られていた「こけし」を、初めて自分の手に取って触ってみると、日本のこけしとは違って、軽くて光沢がありました。
 その人形のお腹のあたりをひねって、そっと開けてみると、中から同じ形の小さいのが出てきました。そして、もっと小さいのも、最後には真ん中が開けられないほど小さいのも出てきました。叔母が言っていた通りでした。

 母のお腹の中にも、こんな風に私たちが入っていたのかな、とか、ちっちゃいほうの模様は大きいのよりも少ないな、などと思いながら、しばらく遊んだ後、座卓の向こうの叔父にその名前を知っているか聞いてみると、叔父は一瞬間を置いてから、入って来たばかりの従兄に向かって、「S、教えてやれ。」と言いました。
 Sくんは、「ありゃ、昨日教えたばかりだぞ。もう忘れてしまったのか?」とでも言いたげな顔つきで私を見ると、「お前は俺が抱っこして大事に育てたから、俺とおんなじ左利きになった。」という話を始めました。それだけは耳にたこができるほど聞いたのに、肝心の答えは教えてくれず、百人一首で一首のかるたも取れなくて「ビールの配達がある。」と言ってそそくさと席を立つくせに、行ったこともない国の「こけし」の名前だけは従兄も知っていたことがわかると、急に悔しくなって、私の目から涙があふれそうになりました。

 ピアノの旋律が止んで、弾いていた従姉や私の姉の笑い声が近づき、みんなが茶の間の座卓を囲み始めると、後から入って来た叔母が、座卓の上の「こけし」をみとめると、「あらっ、マトリョ―シカ。」と小さくつぶやきました。
 叔母と同じように軽い調子でつぶやいてみると、うまく言うことができました。デパートでの叔母との会話を思い出して、どうしてあの時おぼえられなかったのかな、と不思議に思いました。
 
 姉妹や従姉妹や叔母たちが、次々と茶の間の中に集まって全員が座卓を囲んで正座し終えると、障子の外に立っていた従姉のHちゃんが、大きな声で質問をし始めました。
 「はーい、この部屋に大人何人いるー?」
 「子ども何人いるー?」  
 次に、「女何人いるー?」の番がくると、私は誰よりも早く手をあげることができました。
 私には、Hちゃんの口からこの次に「この人形の名前、何ていうー?」という質問が出たら、絶対に間違わずに、そらで「マトリョ―シカ。」と言える自信がありました。

<次回に続きます。>

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忘れられない人々 11.校門の宣教師

 その日の昼休み、私は、下級生用の昇降口のそばにある校庭の遊び場で、うんていの順番を待っていました。
 ぶら下がったうんていの鉄の横棒を片手でしっかり握ったまま、じゃんけんをしながら勝ち進んだ上級生が、ようやく敵の陣地を取った後、横棒の上を歩いていた男の子が、職員室の窓から顔を出した黒縁の眼鏡をかけた男の先生に、「下に下りて下級生にも順番を回せー。」と怒鳴られてから、ようやく私たちの番が回って来た時のことです。
 一段とばしや二段とばしをしながら勢いよく前に進んでいく同級生を眺めながら、私も列の後ろのほうに並んでいました。
 
 ふと左手に目をやると、ゆるやかな傾斜の上に立つ校門のところに、見知らぬ大人が二人立っているのが見えました。男の人と女の人でした。
 校庭の中に入ってこない2人を物珍しそうに眺めていた上級生のうちの何人かが、小走りに校門に近づくと、何分も経たないうちに男の人にもらった紙切れを手にして戻ってきました。
 上級生に、自分がもらった紙がほしいなら取りに行ってもらって来いといわれ、一体それに何が書いてあるのかを知りたい下級生たちは、恐る恐るその二人に近づいて行って、それぞれが紙切れを手にして戻ってきました。
 
 横入りをされてまだうんていの後列のほうに立っていた私の横で、ビラを持って戻ってきた子どもたちのうちのひとりが、話が通じたと言いました。 カーディガンなのか妙に不恰好な前合わせの上着に、だらりと長いスカートをはいた女の人は、収穫前の田んぼで大きく風に揺れる黄金色に輝く稲穂のような髪の色をしていて、濃い茶色の髪の色の男の人のほうは、つんつるてんの吊りズボンを履きくるぶしの上のほうでギュッと結ばれた紐のついた分厚い靴底の茶色い革靴を履いていました。
 話ができるとわかると、怪訝そうにぶらんこの列に並んでいた子も、ジャングルジムの上で様子をうかがっていた子も遊ぶのをやめて降りて来て、進んだり後戻りをしたりしながら二人に近づいていきました。
 
 うんていの順番待ちの列を少しずつ前に進みながら自分の番を待っていた私は、子どもたちに取り囲まれて話をしている二人をじっと見ていました。
 女の人が、親切そうに小さな子どもたちに向かって微笑みかけているそばで、男の人は手に持った紙を配っていました。
 
 「順番がきたぞ、早く行け。」と後ろの同級生の男の子に背中をこづかれ、慌ててうんていの前に立つと、家で姉に教わったことを思い出しました。
「うんていの棒を両手でしっかり握ったら、最後の一本を見て、一回目をとじてから、目をあける。」と自分に言い聞かせながら、棒をしっかり握ってゴールの横棒を確認し、ねらいを定めて目を閉じてから、しっかりと目を開いて前に進んでみたら、急にはずみがついたような気がしました。
 姉に言われた通り、心の中で、左、右、左、右と言いながらよそ見をしないでゴールに向かって手を動かしてみると、ぐんぐん前へ進むことができたような気がしました。前の日は真ん中までしか進めなかったのに、もっと前に進んだような気がしました。
 それでも、やはりゴール直前で落ちてしまったので、赤くなった手の平を見つめながら後列の最後に戻って、残った横棒の数を数えました。あと2,3本でゴールというところまで来ていました。放課後姉に報告したら、ぜったいに喜んでもらえる、と思いました。
 背の高い上級生たちに交じって、一段とばしや二段とばしをしている同級生の手の動きをじっくり見ながら途中で落ちない工夫を考えているうちに、ふと校門の二人の大人のことを思い出して振り返って見てみると、二人はまだそこにいました。今度は、もっと沢山のこどもたちと話をしていました。
 うんていの自分の番が近づいてきていたのに、私は思い切って列を外れて、その人たちのそばに行ってみることにしました。
 
 真ん中分けの髪を襟の後ろで三つ編みにし腰のあたりでひとつに束ねた女の人は、日本語で「神さま」とか「イエスさま」の話をしていて、その横で男の人が子どもたちに紙を配っていました。私も紙がほしい、と女の人に言ってみると、その人は、私の家の裏手にある山の方角を向いて同級生たちに紙を配っていた男の人に、声をかけました。私には、その人の顔がよく見えませんでした。
 吊りズボンのサスペンダーのせいで、少し薄汚れた白いシャツの背中に大きなバツ印をしょっているように見えたのでかわいそうだと思いながら後ろ姿を見ていると、男の人はようやく振り返りました。
 何日も洗っていないのか、ぎとぎとしてつやのない髪の毛のその男の人は、黙って突っ立っている私の方を見ると、「もうありません。」というように悲しそうな顔つきをしながら、両手を腰のあたりで広げて、手の平を空に向けて軽く肩をすくめてみせました。男の人の円らな目は、髪の色と全く同じように濃い栗色でした。
 
 「休み時間おわるぞー。」と声を張り上げながら、ビラをもらった子どもたちが次々と運動場のほうへ走り出したので、紙がもらえなかった私も昇降口に戻ることにしました。
 手ぶらで校舎に向かって走っていたのに、急に、どこから来たのかだけは知りたい、という感情がこみ上げ、私は、走っていたのとは反対方向に踵を返しました。
 息を切らしながら、どこから来たのか聞いてみると、女の人のほうが「あめりか」と言いました。新しい町に慣れてきたばかりで「あめりか」を知らなかった私に、「がいこく」とも言いました。
 
 夜、茶の間の畳の上で、天井を見上げながら父の腕枕でごろごろしていた時、父に、「あめりか」と「がいこく」は同じなのかを尋ねると、父は、「あめりか」は、日本の外にあるたくさんの国のうちのひとつで、日本もまた「あめりか」から見ると「がいこく」なのだということを教えてくれました。
 どうやら天井裏の屋根の上の空の向こうには、まだまだ私が知らない世界があるようなのでした。

<次回に続きます。>

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忘れられない人々 10.駅前の風景

 ある日の夕方、母と私たちを乗せた父の車は、母の実家の玄関の前に到着しました。久しぶりに親せきが集うことになっていたのです。
 車を降りたとたん、裏玄関に回る母の背中に向かって、駄目と言われるのを覚悟で、仏壇に手を合わせる前に、駅前に行ってきても良いか訊いてみました。私の声がとどかなかったのか、母は返事をしませんでした。いつになく足早に歩いていた母が、台所脇の沓脱の板戸の外で急いで靴を脱いでいる背中に向かって、また、あいさつする前に駅に行ってきても良いか訊くと、母はようやく振り返って、行っておいで、と言ってくれました。
 
 玄関の前の道を渡り、通りを隔てた草地と小店の間の、きれいに雑草が刈り取られた小道の斜面を下りると、駅前の広場に出ました。
 
 だだっ広い広場の隅には、あの日と同じように、枕木が重ねて積んでありました。薄緑色の雑草に覆われた濃い茶色の枕木の数は減り、私の背高よりも、ずっと低くなっているように見えました。

 新しい家に引っ越す前に、脇の空き地でお友達と缶けりの約束をしていたすぐ上の姉について行って、細道の斜面をおりようとした時、前を歩いていた姉に言われて、茫々と脇に生えていた雑草につかまりながら用心深く歩いていたのに、ズックが脱げて、乾いた土の上で滑ってしりもちをついたことがありました。
 転んだ私にすぐに気が付くと、姉は、軽やかに体を左右に揺らせながら走り寄ってきて、素早くしゃがんでズックを履かせてくれました。

 姉に手を引かれて、細道をおりてようやく平地に下りた私が顔を上げると、急に視界が広がり、目の前に、姉の背丈よりもはるかに高く積まれた巨大な材木が積み重なる広場が現れました。
 材木の前に立つと姉は、私に向かって、うん、とうなずき、目の前をすたすたと歩いて行って反対側に回り、いとも簡単に、積まれた材木によじ登って、てっぺんまで上がって見せました。 
 家から保育園に歩く道のり、途中にある姉の友達の家の前辺りにあった塀の上に立っている姉は、一度だけ見かけことがありましたが、目の前で高い所に立つ姉を見るのは初めてでした。
 
 太陽を背に、背筋をすっと伸ばして両足を開いてバランスを取ってそこに立つ姉の髪は、肩の辺りで心地よさそうに風に揺れていました。
 私が呆然として見上げている間に、姉は、「いち、にの、さーん。」と大声をあげながら、急にそこから飛び降りてみせました。そして、着地に成功すると、素早く立ち上がり、しゃがんだ時についた両手の土をパンパンと払いながら、再び材木の上によじ登っていきました。
 姉が「いっち、にーの。」で、両腕を開く度に私は息を呑み、肩の高さまで両腕を上げ「さーん。」で、勢いよく枕木を蹴って空に向かって飛び上がり、うまい具合に着地に成功する姿を見ると、心からほっとしました。
 炬燵の上から飛び降りるのがやっとだった私には、塀の上からでも飛び下りられる小学生の姉が英雄に見えたのです。
 姉は、積んである枕木の端のくぼみにズックの先を巧みにひっかけながら、よじ登っては飛び、またよじ登って行っては、私の前で高く飛んで見せました。
 姉の手の平やズボンの膝は、日が暮れる頃には、真っ黒になってしまっていました。

 低い枕木の上に立って、駅の前をぐるりと見渡すと、右手に、近所のみんなが「ちゃやっこ」と呼んでいる小店が見えました。
 中に入ってお店の中をゆっくりとひとまわりし、壁際の台の上に無雑作に置かれていた駄菓子をひとつ手に取って、高い所に座っていたお店の女の人に「こんにちはー。」とあいさつすると、おばさんに100円玉を渡しました。引っ越し前は、姉と一緒にお店の中に入るや否や大声で話しかけてくれる人だったのに、その女の人は、私には目もくれずおつりを数えながら、他人行儀に「はい、どうもね。」と言っただけでした。
 
 小店のドアを出ると、私が数年前に、泣きながら保育園のお友達を見送ったホームがある駅が見えました。ふと、自分がいなくなった時、泣いたお友達はいたのかな、それとも、みんなママのように笑ってお別れができたのかな、と思いました。
 駅前の広場には、たまに一台か二台の車が停まるだけで、心なしか、以前より人通りが少なくなっているように見えました。
 それでも、母が生まれ育った家の前の駅舎と、駅舎の屋根の向こう側にそびえる祖父と登った山の緑だけは、以前と変わらず、静かにそこにたたずんでいるのでした。

 祖父母の家の裏口に戻ってみると、開けっぱなしの板戸の向こうから、にぎやかな話し声が聞こえてきました。
 誰が来ているかな、と思いながら、戸口の外の庭にまではみ出した、軽く二十足はある履物をつま先で踏んづけながら廊下に上がり、振り返って沓脱を見てみると、色とりどりの履物が脱ぎ捨てられていました。いつものように、大きいつっかけも、小さいズックも、きれいなサンダルも、踵がつぶれたのも、破けているのもありました。
 でも、私は、いつの間にか、沓脱の脇に設えられた流し台のすぐ横にきちんと揃えて並べてある祖父母の履物以外、どれが誰のなのかを言い当てることができなくなってしまっていました。
 

<次回に続きます。>

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