忘れられない人々 13.一粒のお米

 ようやく新しい小学校に慣れてきて、集団登校もしなくなると、私は、もうひとりのお友達の畳屋のKちゃんといっしょに、祖母のお店から小学校へ続く一本道を歩いて通学するようになりました。
 学校帰り、ガソリンスタンドのT字路でKちゃんと別れる頃には、温泉街の入り口の角に建つ祖母の米穀店の看板が見えてきました。
 
 いつものように、Kちゃんは、ガソリンスタンド脇の急こう配を下って自分の家に向かいました。Kちゃんは足取り軽くその小路を駆け下りていくのですが、私がKちゃんの家へ行くときは、少し先の家の前の杉並木に沿った平坦な小径を通るのが好きでした。
 畑を通り過ぎて、商店街のお菓子屋を営んでいるおじさんの家の青いトタン屋根や、理容店の有平棒がグルグル回っているのを見ながら八百屋の前にたどり着くころには、とたんに足の疲れがなくなり、ふたをし忘れたランドセルがパカパカ鳴って中から教科書や筆箱が飛び出すほどの勢いで、祖母のお店の手前のT字路まで全速力で走り切ることができました。
 
 エンジンをふかしたまま店の前に横づけしたトラックの荷台には、その日も、ランニングシャツを着たおじさんが2人立って、腰のあたりまでベルトがずれ落ちた薄茶色のズボン姿の黒縁眼鏡のおじさんに掛け声をかけながら、半俵の米袋を渡しているのが見えました。
 通りの向こうから、黒縁眼鏡のおじさんに「M、車来るぞー、気を付けろー。まだ渡るなよー。」としゃがれ声で怒鳴られる前に、いったん止まって右手のゆるやかな坂道を車がおりてきていないことを確認すると、急いで通りを渡ってお店の中に駆け込みました。
 それから、ズックを脱ぎ捨ててレジの奥の畳の部屋の祖母の座布団の脇にランドセルを下すと、飴色の陳列棚の中のお菓子をひとつもらって階段のほうからぐるっと一周して、旅館に配達するために積んである袋のてっぺんに腰をおろしました。そして、邪魔にならないように、3人が威勢よく作業に励む姿を眺め始めました。
 
 荷台の前の方に立ったおじさんが、よいしょと重たい袋を持ちあげると、後ろのおじさんに渡し、そのおじさんがトラックの下でお店の中に運ぶおじさんに渡すのです。日焼けした眼鏡のおじさんは、半俵の袋でも軽々と受け取ってはひょいっと肩にのせて、大股でお店の中に入ってきます。おじさんは、15キロのは2たい重ねて一気に担ぐことができました。10キロのは3袋重ねて運びます。額に手ぬぐいを巻いていても、おじさんたちの顔にはうっすらと汗がにじんでいました。
 
 ようやく作業を終えると、黒縁眼鏡のおじさんは、一息入れるために表に置いてあった丸い木製の腰かけに座ってタバコをふかし始めました。
 ひっきりなしに入れ替わるお客さんと畳の部屋にある電話の応対と、奥の壁面いっぱいのガラスの引き戸の前での売り上げの記帳とをひとりで切り盛りしながら、入り口で一服している米協のおじさんたちと大声で会話を続けている祖母に一声かけて、私は少し離れたところに建つ自分の家へ帰りました。
 
 食事の時間が終わろうとしていた頃でした。
 姉たちが「ごちそうさまでした。」をして手を合わせた後も、いつものようになかなかご飯を食べ終えることができなかった私は、食器洗いをし始めた母が背中を向けている隙に、中に半分は残っていたご飯茶碗のご飯を床に落として、「ご飯が床に落ちたから食べられなくなった。」と言ってしまったのです。
 
 母は、ぬれていた両手をエプロンの裾でぬぐいながら振り返ると、自分の手で、私がわざと床に落としたご飯粒を全て拾って私のご飯茶碗に戻して、一粒のお米を作るには農家の人々が朝から晩まで働いても一年かかることや、世の中にはご飯も食べられない人がたくさんいることを話し始めました。
 嘘をついた私のことを咎めずに「落ちたご飯は食べなくて良い。」と言って母が台所を出て行ってしまった後、ご飯茶碗を覗いてみると、せっかく母が焚いてくれたご飯が、すっかり冷えきって少し汚れてしまっていました。
 茶碗に顔を近づけて、「1、2、3、4、、、、」と数えているうちに、お米の粒の輪郭がゆがみ始め、私の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ出しました。
 箸で一口、冷え切ったご飯を口の中に押し込むと、私は、誰もいなくなってしまった台所の中で一人、泣きながらご飯を食べ続けました。
 
 
<次回に続きます。>

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