忘れられない人々 15.イチョウの並木道

 温泉旅館がぽつりぽつりと立ち並ぶ温泉街の入り口の「歓迎」サインをくぐり抜け、商店街の並木通りを中ほどまで歩くと、私は、郵便局前の赤い郵便ポストをポンポンと叩いてから通りを渡り、そのはす向かいにある散髪店の大きなガラス戸の前に立ちました。
 額に両手をかざして中をのぞくと、目の前の奥の壁に掛けられた大きな鏡の前の椅子には、誰も座っていませんでした。
 入り口の右手の洗髪台の椅子にも、順番待ちのお客さん用の手前の椅子にも誰もいませんでした。
 普段は、たとえ椅子が全部埋まっていても、奥の住まいに続く暖簾の下を行き来しているおじさんの顔も見えませんでした。今日はおやすみだったかな、と思いながら引き返そうとしてガラスから離れると、暖簾がはらりと揺れて、奥から、水色がかった白衣を着たおばさんが白いタオルを重ねて持って現れました。

 店の前に突っ立っていた私を見とめると、おばさんは、洗髪用の椅子の方に向かいながら私を見て軽く会釈をしてくれました。私もお辞儀を返しました。
 重たいガラス戸を引いて中に入ると、散髪屋の中にはひんやりとした空気が流れていました。
 おばさんは、柔らかな声音で丁寧に、どこでもいいですよ、と言ってくれ、私は、その日も、鏡の中の景色を確かめてから真ん中の椅子に腰かけました。叔母さんがトントントンとペダルポンプを踏んで椅子が高くなると、大きな鏡台の鏡に映る自分の姿の後ろに通りのイチョウ並木がよく見えました。
 
 長じゅあん、いせや、郵便局のポスト、百貨店、神社、テニスコート、別荘のプール、バラ園の前のおっきな池、と心の中でぶつぶつ呟きながら、鏡に映らない通りのそのまた向こうの山の麓の景色まで頭の中で追いかけていると、鏡の向こうの景色の中の郵便局の赤いポストから、初めてお友達に出した手紙の返事が戻ってこなかった悲しい思い出とともに、ある風景が胸に去来しました。

 その日、一体何事が起ころうとしているかもよく把握できないまま、とにかく祖母のお店で買い物しながら興奮した様子で祖母と話していた常連のお客さんに言われた通りに、イチョウ並木の通りに行ってみると、理髪店と郵便局の前には多くの人が立っていました。大人はそれぞれ、小学校の国旗掲揚塔で見るのより小さなおもちゃのような紙製の日の丸の旗を持って、にぎやかにおしゃべりしていました。
 男の人たちが声をかけあいながら、その場にいた大人全員に行き亘るように旗を配っていました。一体どこからこんなに来たのかと思うほどの数の小さな旗が配られました。

 間もなく大声で、男の人の掛け声がしました。すると、どよめきと共に、私の周りの大人がそれぞれ手にした日の丸が、いきなりざわざわと音を立てて、私の頭の上で動き始めたのです。人いきれの中、ざわざわと音を立てつづける頭上の旗を見上げてあっけにとられていると、小さな日の丸の旗同士が擦りあって立てる紙の音はさらに高くなりました。
 人の波をくぐって少し前のほうへ行ってみると、左側に立っていた知らないおばさんが、私には回ってこなかった日の丸の旗を、素早く私の手に握らせてくれました。
 通りに向かって次々と身を乗り出す大人の大きな体に阻まれて様子が見えなかったので、私は、さらにするすると大人たちの体の脇をくぐって一番前の列に並びました。
 そして、温泉街の「歓迎」の看板の方からゆっくりとイチョウ並木の通りに入ってきた車の群れに向かって、手にした旗を大きく振り始めました。
 
 やがて、ゆっくりと私たちの前に近づいてくるピカピカに磨き上げられた黒塗りの車を見とめると、旗を持った大人たちが一斉に声をあげました。
 「車が通り過ぎるまで目を閉じるな。」と、隣りのおじさんに言われた通り、私は、大きく左手で掲げた旗を振りながら、瞬きもせずに近づいてくる車を見つめていました。そして、車が私のすぐ前を百貨店の方に向かって通り過ぎた瞬間、ぐるりと振り返り人ごみの中から抜け出ると、祖母のお店に向かってわき目も振らずに駆け出しました。
 お店の中に駆け込み、即座に今しがた見たばかりの光景を祖母に報告すると、祖母は、右側の後部座席のそのお方が日本の「天皇陛下」で、その日「天皇皇后両陛下」は県内への行幸の折、私が住む温泉町の一番奥の旅館へ向かわれていることを教えてくれたのでした。
 
 目の前の鏡の向こうには映らないあの日の風景を追っている私の横に立った理髪店のおばさんは、何も語らずに、穏やかな表情で私の前髪を切りそろえてくれていました。生ぬるい空気が停滞した店の中には、いつまでも、チョキチョキと私の髪を切るおばさんのハサミの音だけが鳴り響いていました。
 引っ越してから初めて、以前に住んでいた町のお友達に宛てて書いた便りへの返事が届くことはありませんでしたが、目の前の鏡に映る新しい通りの風景は、こんな風にして、思いがけない様々な出会いを私に約束してくれるのでした。
 

 
<次回に続きます。>

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