忘れられない人々 14.ピアノの部屋

 その部屋の扉を開けると、左手の壁際に設えられていたピアノの鍵盤に向かって、一番上の従姉のHちゃんが楽譜をめくっているのが見えました。
 今日は一体何を歌うんだろう、と思いながら、神棚と仏壇が祀られた畳の部屋と洋室の間に敷かれている床をトンと一段下りて洋室のほうに入ると、私は、白いレースのカーテンがかかった窓際に置かれた長椅子のほうに向かって行きました。
 
 長椅子には、新しいクッションが3つ置いてありました。薄紫や薄い桃色の生地を触りながら、折り紙細工の幾何学模様を施したような布表のデザインを見つめていると、ピアノの椅子に座って合唱のための曲探しをしていたHちゃんが振り返り、それは薄手の風呂敷で作られていると教えてくれました。
 叔母が裾のほころびを縫い直したばかりの、まっ白い木綿のカバーが破けないように、そっと長椅子の左端に上がって窓の外を見てみると、駅の向こうに、引っ越しする前に、キノコとりに行く祖父を追いかけて登った山が見えました。
 山は、以前にまして緑がより鬱蒼としているように見えました。
 窓の外を眺めていると、あの時、祖父と歩いた水田のあぜ道の風景が、まざまざと脳裏によみがえってきました。
 
 稲刈りはまだまだだな、と思いながら、緑たわわに生い茂る山に面したあぜ道にぽつんと立つ、傾きかけたハサ小屋に積み重ねられた丸いハサに気を取られながら、水田の細い畦道を歩いていると、どんどん先を歩いていた祖父が、一度だけ振り返って「かっぱ取るなよー。」と大声で叫びました。
 その言葉を聞いた私は、ぬめりのある畦道の草の上で滑って泥にズックをとられないように用心深くしゃがみこむと、風に揺れる稲穂の間から田んぼの水面をのぞき込みました。見ると、水面下に沈殿した泥土の中から、小さなカエルが顔を出していました。
 カエルを見ているうちに、さかなやのママの語り部の「河童」の姿を思い出して、その小さなカエルがいきなり、絶対そこにはいるはずのない河童に変身して、稲穂の溝の泥土の中から物凄い勢いで私の顔をめがけて飛び出して来そうな気がしてきました。
 急に背筋がぞっとして首を上げると、左手の方向に歩いていた祖父を探しました。祖父は既に、ずっと先を歩いてしまっていました。
 とうにハサ小屋を通り過ぎて、あぜ道のもっと先に建つ納屋の方に向かってどんどん進んでしまっている祖父の麦藁帽子を見とめて飛び上がると、私は、畦道の草が湿って地面がぬかるんでいることもすっかり忘れて、一目散に駆け出しました。
 途中でズックがズルッと滑って片方が脱げかけてカパカパ鳴っているのも気にせずに、私は、ひたすら祖父の背中だけを目指して、一心不乱に走り続けたのでした。

 ピアノの部屋では、久しぶりに会った従姉妹たちやわたしの姉妹が、それぞれに楽譜を持って、Hちゃんの伴奏で歌ったりおしゃべりをしたりしていました。
 合唱が終わり、Hちゃんが、洋間の棚の上に置いてあるレコードプレーヤーの上のレコードが傷つかないように、針先を見つめながら盤面にそっと針をおろして、黒いレコードが歪みながらぐるぐると回り始めると、叔母は「くるみわり人形」とか「白鳥の湖」とか「眠れる森の美女」とか解釈を付け、その度に、従姉妹たちが、オウム返しに叔母の言葉を繰り返すのでした。
 
 小学校に上がるずっと前にバイエルだけでなく既に沢山の練習曲を終えていた一番上の姉や、手の指だけでなく足の裏まで使ってエレクトーンを弾いていたすぐ上の姉や、教本を使わなくてもそらで曲が弾ける従姉妹たちに混じって、そこには、琴以外は何も弾けない私も座っていました。
 ピアノが弾けない私は、叔母やHちゃんが選ぶ曲のレコードに耳を傾けながら、本棚の中の本を探していたのです。
 ピアノの部屋の本棚には、沢山の日本の昔話や『アンデルセン童話』や『グリム童話』など挿絵がきれいな外国の絵本がぎっしりと詰まっていました。
 その日、私が夢中で読んだ中でとりわけ気に入ったのは『はだかの王様』」でした。
 次々と別の本を取り出しては本棚に戻し、また取り出してはページをめくり、最後の一冊を読み終えた私がふと顔を上げると、楽譜を持った従姉妹たち全員が、Hちゃんの伴奏と叔母の指揮で『羽生の宿』を歌っていました。
 一段下の洋室の床に座ったまま見上げると、和室と私が座っている場所を仕切っている板敷の床が、まるで舞台のように見えました。
  
 玄関を入ってすぐのその部屋に続く扉の前に立つ時、いつもドアノブを回すのをためらってしまうその扉の内側の不思議なその空間で、その日、私は、床にペタリと座って寛ぎ、いとこたちは、私の後方の駅舎の裏山に向かって「羽生の宿」を歌っているのでした。
 従姉妹たちの足元の向こう側には、ちらりちらりと畳の部屋の仏壇の座布団がのぞいていました。私は、しばらくの間、まどろみを誘うような従姉妹たちの優しい声音に耳を傾けながら、目の前の光景をぼんやりと見ていました。
 それから、慌てて本を閉じると、ステージの後ろに回って列の隅の方に加わり、おもむろに誰かの譜面をのぞき込んだのでした。

 <次回に続きます。>

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